論文
アメリカ国民作家になったロシア亡命移民女性
―アイン・ランドの『肩をすくめたアトラス』―

はじめに

アメリカの有名出版社ランダムハウス/モダンライブラリー(Random House/Modern Library)が,1998年に「20世紀の小説ベスト100」の一般読者投票結果を発表した。第1位と2位と7位と8位を同じ作家の作品が占めた。この作家のエッセイは,同じく一般読者投票による「21世紀のノン・フィクション,ベスト100」の第1位も獲得している。この作家の名前は,アイン・ランド(Ayn Rand:1905-82)という。この出版社の評議会(Board)が選んだ20世紀の最高の小説は,ジェームズ・ジョイス(JamesJoyce)の『ユリシーズ』(Ulysses)だったのだが,読者が選んだのは1957年に発表されたランドの『肩をすくめたアトラス』(Atlas Shrugged)だった。1991年に,図会図書館(the Library of Congress)とブック・オフ・ザ・マンス・クラブ(the Book-Of-the-Month Club)は,共同で「あなたが人生で最も影響を受けた本」の読者調査をした。第1位が聖書だったのは,驚くべきことではないのだが,第2位が,この『肩をすくめたアトラス』だった(Gladstein,(a)26)。
  この小説のアメリカ合衆国における影響力と一般的評価は,このように大きい。しかし,日本においてはアメリカ文学研究者ですら,この小説を読んだ人間はほとんどいない。どういうわけか,日本にはこの作家とこの作家の作品は,少なくとも文学の分野では紹介されたことがない。あれほどに欧米の文献の翻訳には熱心である日本なのに,翻訳もされたことがない。ただし,これは一概に,日本のアメリカ文学研究者の怠慢とばかり言えない事情もある。確かに,ランドは,その各種著作が出版以来総計2000万部を超え,現在でも毎年数十万部は売れて版を重ねている超有名作家であり大衆思想家(pop philosopher)であるのだが,アメリカ本国においても,彼女に関する本格的な学術的研究が目立って発表されるようになったのは,1990年代に入ってからである。埋もれた女性作家の発掘と再評価に努めて釆たフェミニズム批評も,ランドに関しては,その作業がまとめられたのは,つい最近の1999年である。1)アメリカのアカデミズムの風潮の後追いと紹介と模倣が,日本のアメリカ文学研究の伝統的あり方であるので,宗主国アメリカのアカデミズムに認知されない作家の研究が,属国日本において,なされないのは無理もないことなのだ。また,ランドは小説よりも,哲学や政治思想に関する著書がはるかに多い。したがって,日本で紹介されてきた数少ない機会も,政治思想の文脈からである。特に,現代アメリカ政治思想研究の第一人者である副島隆彦は,リバタリアニズム(libertarianism)という政治思想を日本に初めて紹介して注目を浴びたが,この思想の先駆的提唱者がランドなのである(副島,294)。2)文学者としてのランド研究が遅れてきたのは,こうした彼女の仕事の幅広さからも来ているのだ。
  本論の目的は,日本では知られざる超有名女性大衆作家のアイン・ランドの代表作『肩をすくめたアトラス』の日本初(多分)の紹介と分析である。論の中心は,なぜこの小説が,1957年の出版以来アメリカの草の根の人々,読者に支持されて来たのかを考察することにある。と同時に,このような超有名女性大衆作家の研究がアメリカにおいても,日本においても,なぜ,こうも遅れてきたのかという問題も考察したい。この問題が,アイン・ランドという作家の特異な思想から生じていることは,言うまでもない。結論を先取りすれば,この作家の提唱する思想は,われわれが生きる現行の社会の伝統的価値観と真っ向から対立するものであるし,20世紀以降のアカデミズムの提示して来た人間観,世界観とも対立するものなのである。