論文
アメリカ国民作家になったロシア亡命移民女性
―アイン・ランドの『肩をすくめたアトラス』―

I アイン・ランドという作家

ランドは日本では未知の作家であるので,ここでは少し詳しく彼女の伝記的事実を記述することにする。ランドは第一次ロシア革命勃発の1905年に,当時のロシアの首都ペテルスブルグ(ソ連崩壊前のレニングラード)に大きな薬局を経営するユダヤ系ブルジョア階級の家庭の三人姉妹の長女として生まれた。父は,大学で化学を学び大きな薬局を経営していた。本名はアリッサ・ロウゼンバウム(Alissa Rosenbaum)である。17年の第二次ロシア革命,18年のロシア共産党発足,19年の十月革命後,父の薬局は国営化され,ランドの一家は困窮し辛酸をなめる。歴史を専攻し哲学を好んで学んだペテルスブルグ大学(ソ連崩壊前のレニングラード大)を25年卒業し,その後,映画学校に入りシナリオについて勉強する。しかし革命後のロシアの混乱,統制,貧困,自由剥奪,個人の尊厳の無視,抑圧に苦しんだランドは自由の国アメリカに夢を賭けることにする。
  彼女は,シカゴに移民した親類を訪問するという理由で念願のパスポートを手に入れる。26年にニューヨークに上陸する。この時,本名を,アメリカ風にアイン・ランドと改名した。シカゴの親類宅にしばらく厄介になるが,そのままランドはアメリカに留まる。両親も承知のうえの,最初から亡命するつもりの出国であった。わずかな所持金とタイプライター以外に,手荷物も少ない移民としての貧しい暮らしが始った。英語もろくに話せないまま,新開売りや給仕や店員など職を転々とする。英語の勉強も兼ねての映画館通いが慰めであり,当初の希望通り,シナリオ作家になりたくてハリウッドヘ移る。ランドは,21歳で英語を学び始めて,英語を使用してのプロのライターになろうとしたのだ。当時のハリウッド三大監督の一人セシル・B・デミル(Cesil B. DeMille)と知りあい,エキストラの職を得たり,衣装係となったりして念願の映画界に入り込む。29年には無名の男優フランク・オコーナー(Frank O'Connor)と結婚する。延長に延長を重ねてきたビザの更新がこれ以上できず,不法滞在という状態を避けるための手段でもあった。ランドは,31年に晴れてアメリカ合衆国の市民権を獲得する。
  ランドはロシアでの自らの苦難の青春時代を題材にしたシナリオを書いた。その中から,36年に『我ら,生きるもの』(We the Living)という小説となって出版されたものもある。それは革命期の混乱し腐敗したロシアから自由を求めて単身,国境を超えようと試みて銃殺されるヒロインを描いたものだったが,時代の空気にこのテーマは即さず,注目を浴びることはなかった。30年代は「赤い十年」(The Red Decade)である。29年の大恐慌がひきがねとなって資本主義経済への幻滅から労働運動が全米を圧巻し,社会主義が現状打破の思想として期待され,ソ連に熱い目が注がれた時代である。時のルーズベルト政権も,大不況失業対策のために資本主義の原則からはずれたニューディール政策を採用し,敵対勢力からその政策の違憲性を問われたぐらいに,時代は社会主義礼讃が風潮だった。スターリンによる反スターリン派大弾圧(逮捕者250万人,処刑68万人,獄死16万人の粛清であった)を見ることはなかったにせよ,ソ連の現実を知っていたランドにとっては,30年代の「赤い空気」は苛立たしいものだった。後の47年に,ランドは非米活動委員会(House Un-American Activities Committee)において,当時の映画界の,現実のソ連社会の過酷さを見ないで美化して描いた親ソ連ぶりについて,証言しているぐらいである(B. Branden, 200-3)。
  1934年に彼女の初の劇作品『ペントハウスの伝説』(Penthouse Legend/原題はWoman on Trial/後にNight of January 16thと改題される)が,ハリウッドで上演された。35年にはブロードウェイで上演されることになり,これを契機にランド夫妻はニューヨークに移る。この劇は半年間上演され,ランドは少し注目を浴びたが,あいかわらず経済的には苦しい生活が続いた。その生活が,7年がかりで執筆し43年に出版された『水源』(The Fountainhead)によって激変した。この小説は,12の出版社から断られた末の出版であり,まともな宣伝もされなかったし,戦時中の物資不足,用紙不足により,絶版の憂き目も見たが,ロコミで読まれ売れ続けた。ついには映画化の申し出も受けて,ランドは莫大な映画化権料を手にした。映画化のシナリオ執筆も要請されたランドはニューヨークから離れ,再びハリウッドに移り,ロス・アンジェルス郊外に牧場と屋敷を手に入れる。生活が安定した披女は,ロシアから家族を呼ぼうとしたが果たせなかった。両親は第二次大戦中のドイツ軍によるレニングラード包囲戦のために死亡した。結局,ランドは1982年に亡くなるまでの生涯,祖国にはついに帰れなかったし,帰らなかった。
  その後は映画のシナリオ(Love Letters, You Came Alongなど)を精力的に書き,46年には『讃歌』(Anthem)を発表する。49年にゲーリー・クーバー(Gary Cooper)主演の映画『水源』が上演され,原作は再び脚光を浴びる。しかし彼女の文名を決定的にしたのは,執筆に14年間を費やし,57年に出版された大長編作『肩をすくめたアトラス』(Atlas Shrugged)である。しかし,これ以後は小説は書かず,自らの思想を整理し深める論文が著述の中心となった。主なものに,61年の『新しい知識人のために―アイン・ランドの哲学』(For the New Intellectual: the Philosophy of Ayn Rand),64年の『わがままの美徳―利己主義の新しい概念』(The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism),67年の『資本主義―知られざる理想』(Capitalism: The Unknown Ideal),71年の『新左翼―反産業革命』(The New Left: The Anti-Industrial Revolution)がある。これらの著作は若い読者に熱狂的に受け入れられ,「ランド教徒」(Rand Cult)と揶揄されるような信奉者たちが彼女を取り囲んだ。その中には,彼女の講演や講義を企画する研究機関を作った心理学者のナサニエル・ブランデン(Natahniel Branden)やフォード政権の経済諮問委員会議長を努め,最近まで,さしずめ日本ならば日銀総裁に匹敵する連邦準備理事会(Federal Reserve Board/FRB)理事長としてアメリカの経済政策の重鎮であり続けたアラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)もいた。現在でもランド思想の民間研究機関はいくつかあるが,みなこのカルト出身の弟子とその後継者によって運営されている。ランドの遺稿管理者であり版権所有者のレオナルド・ペイコフ(Leonard Peikoff)率いるかカリフォルニアの「アイン・ランド研究所」(The Ayn Rand Institute)に,ランド思想の源流とされるアリストテレス哲学の研究者アラン・ゴットテルフ(Alan Gotthelf)が会長を努めるニュージャージー大学が本拠地である「アイン・ランド協会」(The Ayn Rand Society)がある。この学会は,アメリカ哲学学会の分科会でもある。また,先のブランデンやデイビッド・ケリー(David Kelly)の「客観主義研究所」(The Objectivist Center)がニューヨーク郊外のポーキプシーにあり,リバタリアニズム系政治思想誌『自由』(Liberty)ともつながる「アイン・ランド研究誌財団」(The Journal of Ayn Rand Studies Foundation)がワシントンDCにある。面白いことに,これらの組織は互いに没交渉であり,この反目状態がカルトの求心力と排除的傾向を示しているのかもしれない。
  ともあれ,こう書くとロシア亡命移民からたたきあげたユダヤ系女性大衆思想家の硬派な顔が想像されるが,ランドの実人生は,当然のことながら彼女の小説世界よりはるかに混乱し人間臭い。ランドは,夫の美男ぶりから小説のインスピレーションを受けてはいたし,夫の温厚さ,忍耐強さに生涯支えられたが,夫はランドの思想や小説を理解する知性には欠けていた。積極的な生き方はできない比較的無気力な人物だった。生涯職業的には成功せず,生活の収入は主に妻のランドに依存していた。芸術的天分に恵まれ,晩年には画家となったが,ランドは,こうした夫に勉き足りなかった。それも原因して,ランドは自分の信奉者であり弟子であった25歳年下のブランデンと不倫関係を持った。それも,夫やブランデンの妻に堂々と宣言して,彼らに納得させてのことである。夫が愛するカリフォルニアの牧場や自宅も売って,ニューヨークに再び居を移したのも,理由はブランデンだったという。この不倫関係は約14年間継続された。このいきさつと破滅的結果と当事者たちの葛藤については,(当時の)ブランデンの妻バーバラ(Barbara Branden)がランドの死後4年後に出版した『アイン・ランドの情熱』(The Passion of Ayn Rand)に詳しい。これは,ランドの人生と作品生産にまつわる事実と,人間関係を詳細に記録し整理した,初の本格的ランド評伝である(これを元に,同名のテレビ映画が2000年に製作され,ビデオ化もされた)。それに対抗するかのように夫のナサニエルもランドとの関係を『裁きの日―アイン・ランドとの年月』(Judgement Day: My Years with Ayn Rand)と題して,89年に発表した。99年には改題してその改訂版も出版している。それぞれが「スキャンダル暴露物」に陥らず真摯なランド研究になっているのが,興味深い。
  72年には末の妹のノラに再会できたが,妹夫婦はアメリカ合衆団になじめずソ連にもどって行った。75年にランドは肺ガンを宣告される。手術は成功したがその後の健康状態は思わしくなく,夫の死後3年を経過した82年にニューヨークにおいて77歳で亡くなった。圭角の激しさから多くの友人知人と絶交してきたランドに,最後まで忠実だった弟子のペイコフが,ランドの著作・遺稿版権所持者となり,現在にいたっている。ペイコフは,彼女が新開に掲載したコラムや,手紙や日記を整理して出版している。彼女の生涯を題材に,ドキュメンタリー・フィルム『生の感覚』(A Sense of Life)が製作されたが,これは96年のアカデミー賞のドキュメンタリー・フィルム部門にノミネートされた。