II 『肩をすくめたアトラス』のプロットと,その多層性
この小説の表題のアトラスとは,言うまでもなく,ギリシア神話の天球を支える巨人アトラスである。簡単に述べれば,この世界の政治や経済や文化を支えている頭脳と才能と責任感を持った人間が,彼らや彼女らの能力に依存し,それを搾取する人々に自分たちを搾取させるがままにしないで,「ストライキ」を始めたら,この世界はどうなるか,つまりこの世界を支えるアトラスのような人々が「もうやめた」とばかりに「肩をすくめた」ら,この世界はどうなるか?というのが,この小説内容である。『肩をすくめたアトラス』は,ペーパーバック版でも1063ページある長編小説であり,プロットも複雑で登場人物も非常に多い。掛け値無しでヒーローと目される登場人物でさえ4人もいる。この小説が,「ジョン・ゴールトって誰?」(“Who is John Galt?”)という文で始められているように,この小説を堆進する主要プロットは,ヒロインのダグニー・タッガート(Dagny Taggart)が,このジョン・ゴールトが誰なのか,何を目論んでいるのか,を追求する謎解きである。時代は具体的に設定はされていない。便宜上,ヒロインを中心にプロットを以下のように要約してみる。
ダグニーは,無一文から祖父が設立し発展させたアメリカ屈指の大鉄道会社「タッガート大陸横断鉄道」(Taggart Transcontinental Railroad)(以後TTRと記す)の鉄道運行部門担当副社長である。34歳の若さながら,無能な社長の39歳の兄ジム(James Taggart)を歯牙にもかけず,大鉄道会社を運営する。少女時代から,彼女とこの鉄道会社は一体だった。代々発展してきたこの鉄道会社は,人間の可能性と有能さと責任の象徴だった。創業者の孫娘という立場を秘めて,毎夏をすごすハドソン河渓谷沿いの別荘近くにあるTTRの駅の夜勤電話番をアルバイトで勤めるほど,彼女は鉄道の全てを熟知し知悉したがった。大学でも工学を学んだ。
最近,彼女は,銀行家や音楽家や法律家から鉄道技師まで,どの分野においても,なぜか優秀な責任感豊かな人材に限って仕事を辞めて失踪してしまうことが多くなっていることに気がついている。そのために,以前では守られていた物資の納期とか工事の進展とか,鉄道の安全な管理などのシステムが正常に機能しなくなっている。それに加えて,人間の創意工夫と努力を促す自由競争による社会の発展を信じるダグニーが危惧しているのが,政府の政策だった。政府は,自由競争を排した資本主義経済体制から,発明家や産業家や労働者が努力と頭脳で獲得した利益を国家が管理して「必要に応じて」国民に分配し,国民みなが繁栄できる「協同的共生社会」を実現する経済体制へ移行しようとしていた。その大義の実現のために,政府が採る政策は,次のようなものである。適者生存の弱肉強食の企業間競争を排するために新奇な製品を発明して売り出したり,新事業を開拓することを制限する「反競争法」(Anti-dog-eat-dog Rule)の施行。優れた製品やサービスを提供できる企業は独占的になり公共の福祉に反するので,すべての会社にとって規模に応じて必要な利益が得られるようにする「機会均等法」(Equalization of Opportunity Bill)実施。社会の安定した全体的協同的発展のために,労働者や従業員の流動化を避けるために,離職や転職や解雇を禁じる「10−289号指令」(Directive 10-289)の発令と徹底。ダグニーの兄は,自分の無能さを思い知らせる有能な産業家,企業家たちへのルサンチマンから,政府に加担して行く。彼は自分が楽に怠惰に生きて,社長の地位と金が保証されればいいと考えるだけの卑劣な人間だが,口では「最大多数の人々の幸福の実現が正義」だと唱える。
アメリカの産業はじょじょに衰退し,労働者は労働意欲をなくしていく。と同時に,前からの現象であった「人材の失踪」に拍車がかかり,TTRを含めたどの産業,商業分野も無責任と責任転嫁と無能と投げやりな人々のみが残される状態となっていく。社会の停滞と不安と増していく混乱の中で,人々の間には,答えようもない問題には“Who is John Galt?”と言う奇妙な習慣が,すでにいつからかできあがっていた。ダグニーは,そのジョン・ゴールトこそ,社会から有能な人材をどこかへ流出させる「破壊者」だと考えるようになる。ダグニーは,その破壊者から自分の鉄道会社を守らなければならない,最後までその破壊者と闘わなければならない,と固く決心する。
休暇の旅行中にダグニーは,廃業された大自動車工場の廃屋に打ち捨てられたモーターの残骸を見て驚愕する。工学を専攻した優秀なエンジニアでもあるダグニーには,それが現行の輸送機関の問題をすべて解決できるような前代未聞の画期的モーターの完成品が人為的に破壊されたものとわかる。その未来を開くモーターの設計者をつきとめるために,タグニーは様々な調査をするが,その設計者はわからない。
実は,そのモーターの設計者こそ,ジョン・ゴールトだった。彼は勤めていた大自動車会社が売却され,新しい経営者が「能力に応じて労働し,必要に応じて収入を得る」システムを導入し理想的な共同社会としての新しい企業を作りたいと発表した時に,会社を辞めた。自分が設計して完成させたモーターを破壊して失踪した。能力のある者は労働過剰になるばかりで,収入は労働量や功績ではなく,家族数などの必要に応じて分配され,それも労働者の投票で決定されるという全体主義的システムのために,この自動車会社は,倒産する。なぜならば,有能な者の辞職と故意の怠慢が多くなり,無能な者は収入が保証されているので一層に怠惰になり,また労鋤者間の嫉妬反目(同僚の結婚や出産は,自分の収入の減少につながるから)は増大し,息の詰まるような相互監視の環境は,生産性を激減させ,労働者の志気を壊滅させたからである。この現象を予測して早々と会社を捨てるだけの見識と勇気を持った男についての噂が,“Who is John Galt?”という流行りことばの起源になったのだった。つまり,「ジョン・ゴールトって誰?」→「知らない」→「答えのわからないことを言うなよ。わかるはずない」と変化したのである。
ジョン・ゴールトは,有能な人間の能力を搾取して,有能な人間の美徳を利用して自分は楽をして生きようとする寄生虫的人々に汚染されていく社会に見切りをつけて,新しい社会を創設しようと,賛同者を募ってコロラド山中に別社会を建設する。失踪した人材たちは,この別天地「ゴールト峡谷」(Galt's Gulch)を拠点として,この新世界にふさわしい人物を探し救出するために,「旧世界」では人目につかない労働で社会に埋もれながら活動していたのだ。ゴールトは,10年以上もダグニーの鉄道会社の下級労鋤者をしながら,いずれダグニーをも「新世界」に誘うつもりで彼女の行動を監視していたのだ。真相を知って驚くダグニーだが,祖父から伝わる鉄道会社を見捨てるわけにはいかない。
社会はさらに停滞,混乱し,物資の輸送や交通がマヒする。農産物や工業製品も生産量が減少し,かつ生産地から消費地の都会まで物資は流通しなくなる。電力などエネルギー資源の管理,利用システムも壊滅しつつある。ゴールトは全米へのラジオ放送を通じて,新世界樹立の必要性,旧世界の搾取的構造破棄を唱えて彼と彼の仲間の大義を国民に伝える。政府はあわてるが,混乱した社会に秩序をもたらす人材が政府機関にはいないので,ゴールトと妥協を図ろうとするが,彼は拒否する。政府機関は彼を捕まえて拷問にかける。ダグニーや「新世界」の仲間たちは,ゴールトを救出する。ダグニーも,ついに旧世界に絶望し彼らと行動をともにすることになる。システム機能不全のために混乱は一層拡大し,その収拾をつける責任ある機関も人材も旧世界にはいない。繁栄を極めたニューヨークにすら大停電が起き,アメリカ合衆団は破滅の道をたどる。しかし,ゴールトたちにとって,この終末こそが,アメリカの破滅こそが,「彼らのアメリカ」建国の真の始まりなのだ。
アイン・ランド文学研究において,先駆的研究者であるミミ・レイセル・グラッドスターン(Mimi Reisel Gladstein)は,この小説には,「ミステリー」「サイエンス・フィクション」(以下SFと記す)「女性ファンタジー/フェミニズム寓話」「アーサー王風ロマンス」の四つのレベルがあると指摘した(Gladstein,(a)33−61)。小説内容のより確実な把捉のために,グラッドスターンの指摘を利用して,もう少し詳しく小説内容を検討したい。
ミステリーであることは,上記の小説内容の紹介でも明らかだが,SFでもある理由のひとつは,この小説内にゴールトが開発した「静的エネルギーを動力に転換し,鉄道の一車両の半分の大きさで一国の電力をすべて供給できる夢のモーター」が登場したり,タグニーの恋人になる大鉄鋼会社を経営するハンク・リールデン(Hank Rearden)が,鋼鉄よりも軽くて強い奇跡の合金リールデン・メタルを発明したり,タグニーやリールデンの良きビジネス・パートナーであるエリス・ワイアット(Ellis Wyatt)が枯渇した油田再生技術を開発したりするような,現在でも不可能な技術が登場するからである。ただし,ランドは理工学系の専門知識はなかったので,「空想科学小説」らしいリアルで説得力のある,かつ21世紀の読者が読んで,作家に「先見の明があった」と感銘するような事物も技術も想像できなかった。また,20世紀後半は飛行機などの空輸の時代であって鉄道はさびれていくということも見通せなかったし,多忙なビジネス・ウーマンのヒロインに携帯電話を持たせることもなかった(Gladstein,42-43)。その意味で『肩をすくめたアトラス』に描かれる世界は,20世紀的前半的な鉄道や鋼鉄や石油に依存した,セピア色した「懐かしい未来」である。
それでもなおかつ,この小説が優れたSFであるのは,「国家と世界が,ある特定の実践と方向を採り続けるのならば,どうなるかをランドが仮定して書いた未来」(Gladstein,(a)40)が描かれているからだ。SFとは,未来を想像して小説にするわけであるが,作品に輝かしい未来=ユートピアが描かれようが,暗黒の未来=ディストピアが描かれようが,SFは,多かれ少なかれ現在への批判,風刺を前提としている。現在の文脈では書けないことを,未来という架空の文脈で書くのがSFでもある。描かれる未来は作家が危惧する現在の反映か,もしくは反転である。
『肩をすくめたアトラス』に描かれるのは,アルゼンチンもチリも英国もフランスもドイツもグアテマラもインドもメキシコもノルウェイもポルトガルもトルコも「人民国家」(People's State of...)と冠された共同的国家,社会主義国家となった世界であり,その世界の潮流の中でアメリカ合衆国も経済システムを資本主義から社会主義へと変えていく世界である。全体の利益,世界の利益のためという大義名分で,アメリカの生産する富が各国の人民国家に援助として流出する世界でもある。この小説の構想・執筆期間(40年代半ばから57年)は,アメリカとソ連の冷戦が始り強化された時期である。社会主義国家ソ連の国際社会での台頭と東欧やアジア,中近東,南アメリカへの勢力拡大に対する,革命後のロシアの混乱と困窮を経験したランドの恐怖が,この小説には横溢している。ただ,社会主義とか共産主義とか全体主義とかいう用語は,このランドの小説には,いっさい使われていない。ロシアとかソ連とかソ連陣営の国の名前もいっさい言及されない。しかし,この小説が,アメリカ的個人主義/資本主義/自由競争とソ連的集団主義/社会主義/計画管理経済の対立を描き,この小説世界の善と正義は,前者にあることは明々白々に露骨である。この意味において,『肩をすくめたアトラス』は,善としてのアメリカ的なるものの勝利を歌い上げる勧善懲悪「冷戦ミステリーメロドラマSF」である。ジュディス・ウイルトは,「アメリカでのアイン・ランドの小説の根強い売れ方(the stubborn bestsellerdom)というのは,移民の作家が国家的幻想生活の鍵となるような構成要素をつかんでいたということを示唆している」と述べた(Wilt,173)。ならば,『肩をすくめたアトラス』を書いたということにおいて,ランドはアメリカの国民作家である。ある国家の国民作家の機能とは,その国民国家の正当性を保証し,その国家の維持と強化に貢献する作品を生産することだろう。国家を支える共同幻想を物語の形式で国民(特に10代から20代の若い人々)に植え付けるのが国民文学である。
と同時に,この小説は,第二波フェミニズムが台頭する前に,当時としては破天荒な英雄的ヒロインであるダグニーを造型した点において,フェミニズム小説の先駆でもある(Gladstein,(a)46-56)。ただし,ランド自身は同時代のフェミニズム運動に関心はなかったし,自分をフェミニストとして認識した形跡はいっさいない。ヒロインのダグニー造型について,ランドは可能ならばこうありたいと願う理想の女性像を,「自分自身からいっさいの欠点をとった,理想の自分自身」(B. Branden,225)をヒロインにしたと,「これは私のファンタジーだから」(N. Branden,(a),95)と述べたと言われている。ダグニーは,頭脳明晰なエンジニアでかつ大鉄道会社を実質的に経営し,疲れを知らない不屈の闘士であり,飛行機の操縦もできるが,容姿はあくまでも繊細優美な女性らしさを持ち,小説のヒーロー4人のうち3人から愛される。その3人の男たちとは,ゴールトとリールデンと,ダグニーの幼友たちであり初恋の相手でもあった南アメリカの銅山を一手に所有する大財閥の若き当主フランシスコ・ド・アンコニア(Francisco d' Anconia)である。フランシスコは,ゴールトの大学時代の親友で,ゴールトの新世界樹立の計画に賛同して,搾取的な政府に没収,利用される前に,故意に先祖代々の財産を消費し鉱山を廃鉱にする。ダグニーを愛しているが,その秘密のために彼女から遠ざかる。ダグニーを取り巻くこれらの英雄たちは,それぞれがそれぞれを尊敬する親友,同志でもある。ダグニーは,妻のあるリールデンと不倫関係になるが,その状態にいっさい屈託も罪悪感もない。リールデンに依存するわけでもなく,社会的に窮地に陥ったリールデンを救うために,ラジオ番組で正々堂々とリールデンとの関係を説明してスキャンダルなど蹴飛ばしてしまう。また,ダグニーは祖父の代から彼女の家に仕えてきた家出身の忠実な部下であるエディ・ウイラー(Eddie Willer)からも愛されている。まさに,ダグニーの造型には,女性の欲望や夢が臆面もなく全開されている。ダグニーは,ほれぼれするのを通り越して,あきれてしまうような,向かうところ敵なしのスーパー・ウーマンなのである。
作家ランドの意図が何であったにせよ,このタグニー像が一種キャンプ(Hardie,363-87)な「女装した男」でしかなくても,せいぜい「前時代的ブルジョワ・リベラル・フェミニスト」にしか見えなくても,この小説が,フェミニズム意識のある読者に,人間としても女としても(もちろん人間と女を分離させるのは問題ではあるが)十全に生きる有能な積極的女性像を,有効で力強いモデルを与えてきたという点は否めない。大衆文学という大衆の欲望と夢の生成と維持に関与するメディアに,現実逃避装置として以外に,なにほどか社会に貢献する機能があるとすれば,そのひとつは,読者が生きることに力となるような魅力あるモデルを提供することだろう。もちろん,こうした大衆文学の機能は諸刃の剣である。英雄的ヒロインが提示されても,女一般の矮小な現実が是正されるわけでもなく,現実逃避の夢想がまたひとつ増えるだけのことかもしれない。しかし,ジョアン・ケネディ・ティラー(Joan Kennedy Taylor)が示唆するように,フェミニズムの浸透には,ダグニーのような,女の力への確信を内面化させる強力なイメージがイコンが,まだまだ必要なのだ(Taylor,247)。
そして,この小説のプロットの重要な点は,この小説が文学資源から古典的枠組みを借用しているということである(Gladstein,(a)56-61)。ある傑出した英雄の傘下に志を同じくする英雄たちが集まり世の中を動かして行くという構図は,『三国志』や『南総里見八犬伝』などで日本人にもなじみ深いが,西洋人にとってのそれは英国を平定したとされるアーサー王と彼を取り巻く円卓の騎士の伝説である。グラッドスターンは,ゴールトをアーサー王(King Arthur)として,リールデンをランスロット(Lancelot),ダグニーをアーサー王の妃でありランスロットの愛人でもあるグイネビア(Guinevere)にたとえている(Gladstein,(a)58-59)。この小説には,どこか懐かしい未来を描くセピア色の風合いがあることは前にも言及したが,こうした点も要因のひとつであろう。
このように,『肩をすくめたアトラス』のプロットを検討していくと,この小説が「ゴミ古典」(trash classic)とか「思想小説のハーレクイン・ロマンス」とか揶揄されながらも,45年近くもベスト・ロングセラーを続けてきた理由も納得できる。よくできたミステリーであり,かつ冷戦期のアメリカ人を支える国家幻想に強く関与した「冷戦メロドラマSF」であり,女性読者にとっては出会うのが困難な英雄的ヒロインが大活躍する読むのも快感の「女性用ファンタジー」であり,かつ伝統的文学の枠組みを活かした叙事詩的英雄物語でもある。このように実によくできた小説らしい小説を一般読者がほかっておくはずはない。しかし,なぜ,そのような小説を書いたアイン・ランドの学術的評価や考察が遅れて来たのか。特になぜ日本において遅れて来たのか。本論の冒頭で言及された理由以外に考えられるのか。
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