論文
アメリカ国民作家になったロシア亡命移民女性
―アイン・ランドの『肩をすくめたアトラス』―

III ランド思想の因襲破壊性とアカデミズムとの齟齬

ランドが予期していたことではあったが,『肩をすくめたアトラス』の出版時の書評はさんざんなものだった。前述のバーバラ・ブランデンの評伝によると,ニューヨーク・タイムズ紙上においてグランヴィル・ヒックス(Granville Hicks)は「この小説は憎しみから書かれたことは明らかなようである」と評した。パトリシア・ドネガン(Patricia Donegan)は「強者の利益のために弱者が破滅させられることが賞賛されている……憎悪の産物である」と評した。ロスアンジェルス・タイムズ紙上においてロバート・R・キルシュ(Robert R. Kirsch)は「精神病院以外にこんなグロテスクな風変わりなものを見ることは困難であろう」と評した。ゴア・ヴィダール(Gore Vidal)は,「アイン・ランドの哲学はその非道徳性においてほぼ完璧である」と評した。極め付けは,『ナショナル・レヴュー』(National Review)誌のウィットティカー・チェムバーズ・(Whittaker Chambers)の「『肩をすくめたアトラス』のほとんどどのページからも,痛ましい必然からの声が聞こえる。「ガス室へ行け!」という命令の声が」という評であった(B.Branden,296)。すなはち,ランドの小説は,小説のできそのものよりも,小説を支える思想内容が弱肉強食の適者生存競争を推進する,人間愛の欠如した,道徳的に欠陥のあるもの,極めてナチス的な優生学思想的なものと解釈されて,その観点から酷評されたのだ。
  なぜ,このように解釈されたのだろうか。また『肩をすくめたアトラス』は,ほんとうにこういう解釈が妥当なものだったのだろうか。ランドは,この小説の付記にこう記している。「私の哲学は,本質的に,人間を英雄的存在として考える槻念である。自らの生命の道徳的目的を自分自身の幸福とし,自らの最も高貴な行為を生産的達成とし,自らの唯一の絶対物を理性とする存在が私の人間という概念である」(Rand,1075)と。このランドの思想は,後に彼女が「客観主義」(Objectivism)と命名したものである。この思想は,形而上学的には客観的現実(Objective Reality),認識論的には理性(Reason),倫理的には自己利益(Self-interest),政治的には自由放任資本主義(Laissez-faire Capitalism)の立場を採るというものである。下記の文は,ランドの弟子のブランデン夫妻が中心になって62年から65年まで定期的に出版していた『客観主義会報』(The Objectivism Newsletters)の1962年,8月号通算35号にランドが書いた「客観主義とは何か」(“Introducing Objectivism”)と題した文からの抜粋である。

  1. リアリティとは,客観的絶対物として存在している。事実は事実だ。人間がどう感じようと,願おうと,希望しようと,恐れようと。
  2. 理性(人間の感覚によって供給された素材を認識し(identify)統合する機能)は,人間が現実を認知する唯一の手段であり,知識の唯一の源泉であり行動への唯一の指針であり,サバイバルの基本的手段である。
  3. 人間は,どんな人間でも,自分自身そのものが目的である。人間は,決して他人の目的の手段ではない。人間は,自らのために存在しなければならない。自分を他人のために犠牲にしたり,他人を自分のために犠牲にしてはならない。自分自身の理性的自己利益と自分自身の幸福の追求こそが,人間の人生の最高の道徳的目標である。
  4. 理想的な政治経済システムは自由放任(無干渉)資本主義である。それは,人間が犠牲者と搾取者でなく,主人と奴隷ではなく,相互利益のための自由で自発的な交換によって,交易者(trader)として,取り引きするシステムである。それは,物理的力に訴えることによって他人から価値あるものを奪うことなど誰もできないシステムである。誰も他人に物理的力の利用を行使しないシステムである。政府は,人間の権利を守る警官としてのみ行動する。犯罪者や外国からの侵略者のように,物理的力を行使する人々に対しての反撃としてのみ報復としてのみ,政府はその物理的力を行使する。十全な資本主義体制のもとでは,国家と経済の完全な分離が(まだ歴史的には実現されていないが)なされるべきである。同様に,また同じ理由で,国家と教会の分離もなされるべきである。
      (Binswanger ed.,344)

上記の1の立場から,ランドはあらゆる神秘主義や主観主義や唯我論を否定する。主観という意識があるのならば,意識する物質がある。その意識体は否定できない実在なのである。2の立場から,ランドは,理性の行使を充分にしないで宗教や感覚やドグマに固着するのは,知的怠惰と思考からの逃避であるとする。人間の理性の行使とは,人間の自由意志による選択である。人間は常に理性に基づいて選択し自らの行動を自分自身で決定している。その理性の作業からの逃避は,人間にとって不道徳であり,自らの価値と能力に対する冒涜的な行為だとする。3の立場から,ランドは個人主義(individualism)と自己中心主義(egotism)を肯定し,集団主義(collectivism)や利他主義(altruism)を否定する。利他主義を親切さや善意や他人の諸権利への尊放と混同させてはいけない。「利他主義の基本原則とは,人間は自分自身のために生きる権利がないということであり,他人への奉仕のみが人間存在の唯一の正当化であり,自己犠牲が人間の最高の道徳的義務であり美徳であり価値であるとすること」(Binswanger ed.,4)である。つまり,利他主義は,大前提として個人としての人間の否定がある。個人としての人間の理性に基づいた自由意志による選択より,集団の意向を優先させる。だからこそ,『肩をすくめたアトラス』に描かれる新世界,ゴールト峡谷のメンバーは,以下のことばを誓うのである。「私は,私の命を賭けて,私の命への愛を賭けて誓う。私は他人のために生きることは決してしない。また他人に私のために生きるよう依頼することは決してしない」(Rand,675)と。
  したがって,当然のことながら,利他主義が基本となるシステムである全体主義,共産主義,社会主義を,ランドは否定する。それが,4の立場である。なぜ,政府の介入や計画経済を許す修正資本主義ではなくて,古典的自由放任資本主義をランドが支持するのかについて理解するのに,フランシスコが小説内で展開する「マネー論」が助けとなる。彼は,「金(かね)が諸悪の根源」という通俗的見解に対してこう反論する。長いが引用してみる。

  「あなたは,金の起源が何かとおたずねになりましたね。金とは交換の手段です。もし生産される物がなければ,人間が物を生産できなければ,存在しないのが交換です。他の人間と取り引きしたい人間が,交易によって取り引きするという行為,つまり価値ある物を得るために別の価値ある物を与えるという行為の原則の物質的形が金です。金は,たかり屋の道具ではありません。たかり屋は哀れっぽく泣いてあなたの生産物を所有することを主張します。金は,また略奪者の毒でもありません。略奪者,不正利得者は,あなたからあなたの生産物を力づくで取ります。金とは,生産する人間によってのみ可能にされるものです。これを,あなたは悪とおっしゃる?あなたが,あなたの努力への支払いとして金を受け取る時,他人の努力の生産物とその金を交換するという信念でのみ,そうするはずです。金に価値を置く人間ならば,たかり屋や略奪者ではありません。どれほどの大量の涙も,世界中からかき集めた銃すらも,あなたの財布にしまわれている紙を,あなたが明日生きるのに必要とするパンヘと変換できません。その紙は,本来は金,ゴールドであるべきだったのですが,それは名誉の印です。あなたのその紙の所有権は,生産する人間のエネルギーに基づいたものだからです。あなたの財布は,あなたの回りの世界のどこかで金の起源である道徳的原則を踏みにじらない人々がいるという希望の表現です。これを,あなたは悪とおっしゃる?(中略)金は,あなたの生産物やあなたの努力ゆえに金を得ることを,あなたに許します。あなたの生産物やあなたの努力がそれを買う人間にとって価値があるという条件でならば。それ以外は駄目です。交換しあう者同士の強制されない自主的な判断による相互利益を持つ人々以外には,金は取り引きを認めません。人間は,自分自身の利益のために働かねばならないという認識を金はあなたに要求します。自分自身を傷つけるためではないのですよ。人間は自分が獲得するために働くのです。自分が損をするためではないのですよ。自分は重荷を背負う獣ではないし,惨めさを背負うために生まれたのではないという認識,人間には価値ある物を与えなければならないという認識,人間の共通の絆は苦しみの交換ではなくて,物の交換だという認識を金は要求します。他人の愚かさへあなたの弱さを売るのではなくて,他人の理性にあなたの才能を売ることを,金は要求します。あなたが他人が提供するまやかしものではなくて,あなたの金が見つけられる最上の物を買うことを,金は要求します。人々が交易で生きるとき―最終的な働きかけとしては,理性によって,決して強制ではなく―勝利をおさめるのは最高の生産物です。最高の行為です。最高の判断と最高の能力をもった人間です。ひとりの人間の生産性の程度とはその人間が獲得する報酬の程度です。これが,人間の存在の掟であって,その道具と象徴が金なのです。これがあなたが悪とお考えになるものでしょうか?」(Rand,382-83)

都市や国が交換,交易のための市(いち)を中心に発展したものであることは歴史的事実であり,金(かね)は,本来の起源の物々交換から,商品と商品の交換の媒介物として発明された。それは画期的な発明であった。人間が自らの努力と知恵の結晶であるものを,他人の努力と知恵の結晶と相互に納得して交換する行為を,より便利なものにするために発明された金は,したがって当然,人間の知恵と努力の象徽でもある。このフランシスコの「マネー論」によれば,金が汚いのではない。金が諸悪の根源なのではない。その「人間の知恵と努力の象徴」である金を,「自分の努力と知恵」との均衡した交換ではなく,たかりや略奪で獲得しようとする意志や行為が汚いのであり,そのたかりや略奪という行為が悪なのである。他人の努力や知恵を,自分のそれと均衡した交換で得るのではない行為が悪なのである。利他主義は,こうした搾取の別名なのである。利他主義は,一見きわめて美しい行為に見えるが,自らの努力と知恵の産物を,他者の努力と知恵の産物と交換させるという公平な交易ではない,という意味において,他人からの自分への搾取を許すという意味において,自己を冒涜することなのだ。それは,自己の努力と知恵を冒涜することであり,自己否定であり,自己の生命の否定なのだ。またそれは,他者の否定にも通じる。他者の努力や知恵の産物を正当で均衡した報酬を提供することなく利用することを,自らにも許してしまう行為でもある。この意味で,社会福祉や慈善は,ランドの小説においては,搾取と略奪の偽装であり,結局は寄生的人間を許す悪なのである。この観点から社会主義国家の「能力に応じて,必要に応じて」(カール・マルクスの『共産党宣言』の有名な文句)というシステムは,悪であり,人間の尊厳への冒涜なのである。だから,ランドは自由放任資本主義を支持するのである。
  つまり,『肩をすくめたアトラス』には,単なるアメリカ的システムを善とする「冷戦メロドラマSF」だけにとどまらない相がある。確かに,この小説は,冷戦時代のアメリカにおいて,南北戦争の北部におけるハリエット・ビーチャー・ストウ(Harriett Beecher Stowe)の『トムおじさんの小屋』(Uncle Tom's Cabin)と似た働きをした(Gladstein,(a)21/27))。世界を善と悪の闘争,神と悪魔の闘争と見るマニ教的世界観が,近代小説の写実主義にはいりこみ,伝統的にアメリカの小説には寓話的相があり,「近代小説」離れしていることは,リチャード・チェイス(Richard Chase)が50年代に指摘して久しい(Chase,vii-xii,12−13)。ロシア亡命者であるランドはヨーロッパの近代小説の素養も豊かであったが,自作にはアメリカの伝統的小説の型であるロマンス構造を踏襲した。ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)の小説が,ピューリタニズムを土台とした神と悪魔の闘争を人間の内的葛藤の中に劇化したものならば,ランドの小説は,アメリカ的個人主義/資本主義/自由競争とソ連的集団主義/社会主義/計画管理経済の対立を,魂という私的領域から政泊/経済という公的領域にまで広く展開した「冷戦ロマンス」であるが,実はそれ以上だったから,問題なのだ。正確に言えば,『肩をすくめたアトラス』において提唱されているのは,人間の生存様式の大きな二つの方向性,個人主義(individualism)と集団主義(co11ectivism)の対立,自己中心主義(egotism)と利他主義(altruism)の対立ではなくて,個人主義の集団主義に対する道徳的優位,自己中心主義の利他主義に対する道徳的優位なのである。
  ここまで来れば,いかにこの小説が,伝統的道徳や宗教が説くものと異なるかがわかる。特に伝統的キリスト教の価値観からすれば,ランドの提唱する人間は悪魔的に見えるのではないか。最大多数の人間の幸福を実現するのが政泊の目的とされて,集団の福祉が個人の選択より優先され,利他的行動が称揚されるのが,現行の政治文化の一般的前提,常識である。だから,本人の意志や努力に関わらず,所与の条件のために,理性を発揮する能力に恵まれず,かつ他者との交換に見合う努力や知恵の産物を生産できない人間はどうなるのか?と我々は当然,疑問に思う。その解答は,この小説にはない。だから,ランドは弱肉強食論者と呼ばれたのだが,ゴールト峡谷に新世界を築く人々とは正反対の,小説内におびただしく描かれる「たかり屋」や「略奪者」の群像を検討すると,そうした批判はあたらないことがわかる。
  たとえば,ダグニーの兄ジェイムズは,無能で責任を果たせないことを自覚しているが社長の地位は手放したくない。難題は常に妹に押しつけて来た。能力がなく生まれたのは,自分の責任ではないのだから,このままの自分を世間は認めて受け入れてしかるべきだと考える。そういう自分のような人々が安心して暮らせるためには,社会に自由競争や能力競争があってはいけないと考える。有能に生まれた人間は,その有能さはその人間の生まれつきで努力で得たものではないのだから,他人のために使う義務があると考える。だから妹のダグニーに依存していても,全く感謝の気持ちはない。自分のために,妹がもっと働くことを要求しさえする。それは妹の義務だと彼は考える。
  ダグニーの恋人になる大鉄鋼会社を経営するハンク・リールデン(Hank Rearden)は,鋼鉄よりも軽くて強い奇跡の合金,リールデン・メタルを自ら研究し長年の試行錯誤の末に発明した。彼は,ランドが賛美してやまない努力と知恵の産物を社会に提供できる産業家であり企業家である。しかし彼の妻や母親や無職の弟は,彼を金もうけにばかり熱中して家族をかえりみないと責める。その家族の生活を支える金を稼ぐのはリールデンなのだが,「金が全てではない」という理由から,彼らはリールデンの自分たちへの貢献を認知していない。彼らはリールデンに寄生していること,リールデンの自分たちへの責任感や献身,奉仕に依存して生存できていることを認識できない。リールデンは能力があるのだから自分たちを養い支えるのは当然なのだ。リールデンの家族は,自らの努力と知恵で何かを生み出すことがないので,彼を理解することが全くできない。家族の自分に対する冷酷な搾取を直視できるようになったリールデンが家族を捨てるとき,初めて,彼の家族は自分たちの卑劣さ,依存性に気がついて謝罪する。しかし,リールデンは家族だからという理由で,彼への搾取を正当化して彼を利用しつつ非難してきた家族を許さない。
  読者は,このような,「たかり屋」たちが弱者と感じるだろうか?能力があるから強者とは限らない。無能だから弱者とは限らない。人間社会は,そのような単純なものではない。注目すべきなのは,ランドの「たかり屋」「略奪者」告発は,俗情と結託する政治家や努力なく生き残ろうとする無能な産業人,企業人ばかりではなく,一方的な依存関係の不公正さや搾取性,暴力性を愛という名で偽装し隠蔽しがちな,「親子」「兄弟」「夫婦」という個人的領域にも向けられているということである。政治的なものは個人的なものとは,フェミニズムが提起した洞察だが,ランドの小説が提唱する個人主義/自己中心主義は,この意味で公的領域から私的領域まで,貫通されている。この徹底性が,ランドの思想の因襲破壊性(iconocrasm)をより際立たせている。ここまでの個人主義は,個人主義の本家本元の欧米でも想定されていないのだ。
  ランドが批判したのは,アメリカのなかのソ連的なるもの,ソ連的なるものの基盤となる人間存在のありようなのである。個人が個人として生きることを受容しないこと,なのである。それがすべての基本であり根源なのに。個人の尊厳や自由を旗印にするアメリカという国家も,実体は国家統制主義(statism)であるし,集団主義であるし,国民が大勢に順応する盲目的奴隷なのだ。アメリカにおいて,独立した個人が自由意志から理性に基づいて行為を選択し,自らの能力の達成を,他者のそれと対等に交換するシステムが十全に機能しているのだろうか?冷戦は,本当に相反するものの戦いだろうか。人は自らの敵に似ている。似ていなければ敵対しない。ソ連的なるものは,アメリカ的なるものの相似かもしれない。ロシア亡命移民が亡命先の国家を盲目的に美化して書いたのが『肩をすくめたアトラス』ではない。アイン・ランドというロシア亡命移民は,冷戦という文脈を越えた,より普遍的な問題を提起したのである。だから,「冷戦ロマンス」なのに,冷戦終結後10年以上経ても,彼女の作品は古くない。より重要性を増している。個人主義と集団主義,自己中心主義と利他主義,この二方向に沿った人間と政治のあり方にまつわる問題(個人の尊厳か,集団の利益か/それはどんな利益なのか/政府とはそもそも何なのか/もし政府が必要ならば大きな政府か,小さな政府か/個人の尊厳が侵されない集団と個人の共存形式は何か)は,21世紀に,より深く,切実に問われなければならない問題だからである。
  批評家たちが,この小説を「憎しみから書かれた」だの「非道徳的」だのと非難したのは,彼らが,通俗的,慣習的,伝統的価値観の中から,また現行の政治文化の枠組みから,この小説を判断したからであった。彼らは,商業主義のジャーナリズムから書く人々だから,こうした大衆社会に支配的な価値観遵守の立場で許するしかなかった。
  しかし,なぜ,アカデミズムまでランドを無視したのか。ランド思想の因襲破壊性そのものは,アカデミズムがランドの小説を評価しなかった理由にはならない。アカデミズムは,一般的通念や類型化した慣習的思考に挑戦し,認識の枠組みを広げるのが機能でもあるのだから。アカデミズムのランド無視の理由としては,ランドの提唱する人間観と20世紀のアカデミズムが獲得した人間観との齟齬があげられる。「事実はない,あるのは解釈だけ」と言った近代相対主義の父と言われるニーチェや,フロイトの精神分析やアインシュタインの相対性理論やマルクス経済学の影響は言うにおよばず,特に60年代以降,フランスからアメリカに輸入された記号論や構造主義や脱構築理論などのポスト・モダニズム思想は,人間存在の自立性を解体した。人間の欲望は他者の欲望であり,人間の自我は社会的に歴史的に構築されたものであり,主体も自由意志も幻想なのである。「価値観の基整を神や自然に据えようとしても,その価値観を生み出した側の人為的な所作でしかないことが暴露され」たのだ(Fukuyama,73/邦訳 106)。アカデミズムからすれば,ランドの思想は素朴すぎる実在論であり,時代錯誤の英雄主義であり,危険な超人思想であり,その意味で知的な考察に価しない粗雑で幼稚な大衆思想なのである。
  また,アカデミズムの中でも埋もれた女性作家の再評価作業を精力的にしてきたフェミニズム批評からも,ランドが無視されて来たのは,前述のグラツドスターンや,テイラーやナサニエル・ブランデンや,ウエンディ・マッケルロイ(Wendy McElroy)が述べているように,アメリカのアカデミック・フェミニズムの政泊的立場が民主党系ラディカル左派に属し,マイノリティ擁護,弱者救済の高福祉社会をめざす「大きな政府」支持者であることから来ている(Gladstein,(b)51/Taylor,241-45/N.Branden,(b)226-27/McElroy,155-56)。3)こうした政治的立場がランド説くところの集団主義や利他主義批判とあいいれるはずがないし,ランドの造型した英雄的ヒロインも,時代遅れの「西洋/白人中心主義ブルジョワ・フェミニズム」の産物であり,階級や人種やエスニシティを視野に入れて久しいアカデミック・フェミニズムの枠組みには,ランドが入る余地がなかったのだ。
  そして,このような作家が日本で未紹介であったのも,もう理由を述べるまでもないだろう。太平洋戦争敗戦後の日本の文学分野を席巻してきたのは,岩波書店に代表される「文化左翼」もしくは「心情文化左翼」だった。読書を習慣とするような高学歴の日本人は,その戦後の精神風土に育まれて,多かれ少なかれ,社会主義国家への肯定的な幻想と反米/嫌米/反資本主義的心情をつちかって来た。自分たちは,そのアメリカ帝国の傘の下の平和と繁栄を享受しているにも関わらず。その心情左翼風土は,1980年代にはまだ濃厚であった。冷戦終結後,ソ連や中国などの共産圏に対する美化,ロマン化傾向は,おさまりつつあるが,左翼的心情は依然としてアカデミズムの中に色濃く残っている。こうした従来の知的風土のなかでは,「冷戦ロマンス」としてのランドの小説は,アメリカの極右的言説として,読まれる価値のないものとして処理されたのだろう。冷戦ロマンスの作家らしく,冷戦期の国民作家らしく,名門士官学校ウェストポイントの卒業式祝辞を依頼されたこともあるランドには,保守,右翼,タカ派という公的イメージがつきまとってきた。憲法第九条のもと軍事的なことは政治的審議事項として提起されることにすら忌避/拒絶反応を起こす日本人には,ランドはあまりにも政治的,あまりにも挑発的な作家であろう。
  また,ランドの思想が,戦後日本の知的風土ともあいいれなかったと同時に,日本人の伝統的精神風土ともあいいれないのは言うまでもない。日本の政治/経済体制が,資本主義の顔をした社会主義/共産主義だとは,多くの研究者によって,よく指摘されてきたことだ。4)前述の日本にモダニズムが根づいていないこと,国民に真の近代的精神が内面化されてきていないことも,よく指摘されてきたことだ。さきに,例にあげた家族を捨てて新世界に参加するリールデンを理解できない文化の最右翼は,先進国の中でも日本文化であることは否定できないだろう。新世界の参加者の誓いが最も理解できない民族が,多分日本人であることも確かだろう。
  しかし,筆者は,だからこそ日本人はアイン・ランドという作家,哲学者,政治思想家を知るべきだと考える。日本は好むと好まざるとに関わらず,アメリカ合衆団という国家,20世紀から21世紀にわたる帝国と交通していかなければならない。アメリカの草の根の国民の欲望と幻想の形成と維持に大きく関与してきた小説を書き,60年代に「客観主義運動」(Objectivism Movement)という一大ブーム(公民権運動ばかりがアメリカの60年代ではない)の中心となったアメリカ国民作家,大衆思想家アイン・ランドを知らないできたこと,読まなかったことは,日本人のアメリカ理解に大きな空白を残して来たのではないか。外国における日本研究,日本文学研究が,『源氏物語』や川端康成や三島由紀夫を論じても,司馬遼太郎を読まないのならば,その研究姿勢は,日本人からすれば歪なものに感じられるだろう。それと同じことを,日本のアメリカ文学研究はしてきたのだ。ホラー小説の大家,ディーン・クーンツ(Dean Koontz)は,かつてランドについて「彼女は単なる大衆作家ではない。あと20年は真価を認められないかもしれないが,アメリカ文学史上の重要な作家のひとりである」と評したことがある(Koontz,296-97)。クーンツがこう言ったのは,1981年である。その時期は来た。日本でも,『肩をすくめたアトラス』ともうひとつのランドの代表作『水源』の翻訳作業が進行中と聞く。日本の一般読者がアイン・ランドを発見する日も近い。

本論は,ランドの代表作『肩をすくめたアトラス』分析の試みだが,小説の基盤となるランド思想の綿密な検討については,言うまでもなく不十分に終っている。それは,今後の課題であるし,別の機会に論じたい。クリス・マシュー・スカバラ(Chris Matthew Sciabarra)が述べるように,ランドの思想は,「閉ざされたもの」「完結したもの」ではなくて,その彼女の思想からより発展した思想が生まれるような,示唆豊かな,可能性豊かな「開かれたもの」(open-ended)なのだから(Sciabarra,7)。