論文
アイン・ランド『水源』----もうひとつの訳者あとがき

アイン・ランドという作家

アイン・ランドは、第一次ロシア革命勃発の1905年に当時のロシアの首都ペテルスブルグの裕福なユダヤ系ロシア人家庭に生まれた。本名は、Alissa Zinovievna Rosenbaumである。父親が経営する大きな薬局は国営化され、一家は困窮する。ソ連の体制から逃げるべく、渡米の機会を掴み、1926年に上陸しそのまま亡命した。ハリウッドでシナリオライターをめざしつつ、7年がかりで書いたのが『水源』であるが、彼女の文名を決定的にしたのは、執筆に14年を費やした大長編小説『肩をすくめたアトラス』(Atlas Shrugged,1957)である。この小説は、寄生的人々の共同主義に汚染されていくアメリカを捨てて、主人公たちが新しいアメリカを建国するという一種のSF小説である。『水源』よりも、リバータリアニズムの表出は、はるかに濃厚な大作である。アメリカ人ですら、あまりの長さに途中で読むのを諦めるという大作である。

肩をすくめたアトラス』発表後のランドは、自らが提唱する「客観主義」を紹介、解説する論文執筆と講演活動に従事した。弟子であり25歳年下の(夫公認の)ランドの愛人でもあったナサニエル・ブランデン(Nathaniel Branden,1933-)が設立した研究所(Nathaniel Branden Institute)は、「客観主義」を広めるべく、アメリカやカナダの大学でセミナーを開き、講演会を企画し、会報を出版し、会員を増やしていった。

「客観主義」布教(?)活動も、それを支えた弟子たちの連携も、ブランデンがランドの女性の弟子と愛人関係になり、ランドの逆鱗に触れたことから、1970年代初頭には崩壊した。アメリカにおけるアイン・ランドへの関心の少なくない部分が、ランドと弟子たち=ランド教徒集団(Ayn Rand Cult)の確執・離反スキャンダルに向けられていることは否めない。ランドの最高の女弟子でありナサニエル・ブランデンの妻だったバーバラ・ブランデン(Barbara Branden,1929-)は、1986年にランドの伝記The Passion of Ayn Rand(『アイン・ランドの受難』とでも訳すべきか)を発表し、この内容は真摯なランドの評伝なのだが、これがテレビ映画化されたとき、ドラマのほとんどは、「ランド教徒集団」のスキャンダルを中心に描かれた。愛人はナサニエルばかりでなく、現FRB議長のアラン・グリーンスパンもそうだったという説もあるが、事の真偽はわからない。

ランドは高名な作家となったのだが、その評価は一定していない。一般読者は彼女を支持し続けたが、アカデミズムからは無視され続けた。これだけ高名な作家ならば、名誉博士号を多くの大学から授与されるのが通常であるが、彼女に名誉博士号を与えたのは、オレゴン州のルイス&クラーク・カレッジだけである。この大学はオレゴン州では名門大学であるが、「全国区」とは言えない。有名作家を招いて講演会を開くのが常の大学や中高一貫教育の私立学校(preparatory school)が、彼女を講演者として招聘することも、少なかった。実現した場合は、教授陣(Faculty)の反対を押し切って、理事会の強力なメンバーで寄付金も多く出している企業家の要請にしぶしぶ応じたから、という例が多かったようである(Tobias Wolffの2004年初頭に出版された自伝小説Old Schoolに、ランドの講演会を目撃したエピソードが、彼女とその弟子たちに批判的に描かれている)。

ランドの晩年は、印税収入で生活自体は安定していたが、ハリウッド時代に知り合った無名の美男俳優だった8歳年上の夫のフランク・オコーナーの痴呆の介護の苦労があった。しかし、最後まで向学心を失わず、数学の問題を解く練習をしたりした。晩年のランドがテレビ出演しているフィルムが残っているが、眼光の活き活きとした鋭さと、在米50年ほど経っても重いロシア語なまりが抜けないながら、その話し言葉はとつとつとしながらも、書き言葉のように論理的で簡潔であったことが、誰の目にも耳にも(?)見て取れる。ランドは、長年のヘビー・スモーカー(弟子たちはみな真似してヘビー・スモーカーになった)ぶりがたたったのか肺癌となり、1982年に死亡した。