論文
儲ける<女>
―Atlas Shruggedが寿ぐ美徳の産物としての貨幣―

因習打破的政治思想小説?

Dagnyは、無一文から祖父が設立し発展させたアメリカ屈指の大鉄道会社の運行部門担当副社長であるが、社長の兄が無能無責任であるので、実質的な社長でもある。彼女は、どの分野からも優秀で責任感豊かな人材が失踪してしまい、社会のシステムが正常に機能しなくなっていることに気がついている。政府は、「最大多数の最大幸福」を達成するという大義のもとに、社会主義化する外国諸国にならい、「生命と自由と幸福の追求」という国民の権利を保障するのが政府の機能とする建国の理念を捨てつつある。自由競争を排して、国民が産出する富を国家が管理して「必要に応じて」国民に分配する「共同的社会」へと、アメリカを移行させたいのだ。そのために、ろくに論議もせずに、以下のような奇妙な法律を制定し施行する。適者生存の弱肉強食の企業間競争を排するために、新製品の開発・販売や、新事業の開拓を制限する「反競争法」。優れた製品やサービスを提供できる有力企業の専横を防ぐための、全企業がその規模に応じて必要な利益が得られるようにする「機会均等法」。安定した全体的共同的発展のための、従業員の離職や転職や解雇を禁じる法。個人より公共の福祉を優先させるための知的所有権や特許権の撤廃法。アメリカの産業は急速に衰退し、人材の失踪には、さらに拍車がかかる。

一方、John Galtと仲間たちは、アメリカ政府に見切りをつけてロッキー山脈の巨大峡谷に「新世界」を建設中だ。新世界への参加を誘われ真相を知って驚くDagnyだが、自らの鉄道会社を、旧世界を見捨てることができない。Galtは全米へのラジオ放送を通じて、旧世界の搾取的構造を批判し、新世界建設の大義を国民に伝える。政府はあわてるが、混乱した社会に秩序をもたらす人材が政府機関にはいないので、Galtと妥協を図ろうとするが、彼に拒否される。政府機関は彼を逮捕し拷問にかける。「新世界」の仲間たちはGaltを救出する。Dagnyも、とうとう旧世界に絶望し、都市機能が完全に麻痺し停電した暗黒のニューヨークを脱出し、新世界をめざす。

この小説の表題のアトラスとは、言うまでもなく、ギリシア神話の天球を支える巨人アトラスである。この小説はアメリカを支える人材をアトラスに見立てて、その幾多のアトラスたちが、自分たちに不当に課せられる重荷を担うことをやめる(=肩をすくめる)過程を描いているのだが、実はこの小説は、かなり「因習打破的」に見える。

まず、この小説は、「人間の自我は社会的歴史的に構築されたものであり、主体も自由意志も幻想だ」と言い立てるのが知的主流の時代に、人間の理性の力と自律と独立と主体性と選択の自由を高らかに歌い上げた。利他主義を称揚するのが一般的伝統的倫理なのに、利他主義を提唱する人間は他人の功績に寄生したがるたかり屋だと述べた。はっきりと、自由競争の自由市場の自由放任資本主義を支持した。これでは、あさはかな読者が、この小説を、遅れてきた自由主義者の時代錯誤の妄想の産物であり、弱肉強食の生存競争を認め、自分だけが幸福であればいいとする利己主義を奨励し、拝金主義の営利主義のカウボーイ資本主義を礼賛する、とんでもない保守反動的政治思想小説とし批判するのも、大いにありうることである。

本論の文脈から問題にすべきことは、この小説が資本主義を寿ぎ、産業資本家や企業家のような実業家という人間のありようを道徳的なものとして描いていることにある。たとえば、ヒロインDagnyは、美貌と富の持ち主なのに、社交には関心がなくパーティなどにはめったに出席せず、ほとんど毎日が残業で執務室に寝泊りすることも珍しくはない猛烈キャリア・ウーマンだ。国の繁栄を支える物流の要である鉄道会社の経営にあけくれる生活の中で彼女は幸福であり、「独身で子どももいなくて、私は負け犬・・・」などと悩むことなど絶対にない。気がかりといえば、仕事の達成に必要な人材の払拭ぐらいだ。社員からは信頼され、美丈夫の大鉄鋼王の愛人がいて、スペイン貴族の末裔で銅山財閥の御曹司であるブラジル人の幼馴染からも、部下からも恋され、新世界のリーダーJohn Galtにも愛される。不愉快なほど完璧に才色兼備なスーパー・ウーマンではあるが、あくまでも彼女は、人品高貴、清廉実直、進取の気性と責任感に富む勤勉な実業家であり、アメリカの衰退を食い止めるために孤軍奮闘する社会の木鐸である。

アメリカ文学において、実業家は「粗野で俗物で腐敗していて略奪的で横柄で反動的で道徳観念がない」存在として描かれるのが通常である(Hofstadter,233)。「実業家は必ずいつでもどこでも強欲な搾取者であり、作家たるもの彼らの専横に筆誅を加えねばならない」という使命をアメリカの作家は感じているらしい。ならば、なぜグッゲンハイムやロックフェラーやフォードなどの大実業家一族からの基金によって創作活動をする作家は少なくないのであろうか?アメリカの作家の奇妙なる「反実業家意識」の問題はさておき、どうしてこの小説は、「因習打破的」にも、資本主義を礼賛し、かつ実業家をあるべき人間像として提示しているのだろうか?それは、この小説が提唱する貨幣観を確認すると、理解できる。