Anthem(1938)全訳 |
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第十一章我あり。我思う。我は望む。 わたしの手・・・わたしの魂・・・わたしの空・・・わたしの森・・・わたしのものであるこの大地・・・ この上、何をわたしは言わなければならないだろか。これが言葉なのだ。これが答えなのだ。 今、わたしは山の頂の上に立っている。頭を挙げて、両腕を広げる。これだ、わたしの体に、わたしの魂、これが、探求の目的なのだ。わたしは、物事の意味を知りたかった。わたしがこの世に存在しているということの正当性を保証するものを見つけたかった。でも、今のわたしは、わたしの存在を保証してくれるものなど必要ない。わたしの存在を是認する言葉など必要ではない。わたしが、その保証だ。その是認だ。 物事を見ているのは、わたしの眼だ。わたしの眼の視力がこの地上の美しさを認める。聞くのは、わたしの耳だ。わたしの耳の聴力が、世界に歌を与えるのだ。考えるのは、わたしの脳だ。わたしの脳の判断が、真実を見つけることができる唯一のサーチライトだ。選択するのは、わたしの意志だ。わたしの意志の選択が、わたしが尊敬できる唯一の命令だ。 多くの言葉がわたしに譲渡されてきた。賢明な言葉もあれば、誤った言葉もある。しかし、ただ三語だけは聖なるものである。「わたしは・それを・望む!」 どの道をわたしが行こうと、わたしを導く星は、わたしの中にある。道案内の星と道を指し示す天然磁石は、このわたしの中にある。このふたつは方向を指し示すが、いつもひとつの方向しか示さない。それらは、わたしを指し示すのだ。 わたしが立っているこの大地が、宇宙の中核なのか、もしくは永遠の中に埋没した小さなしみのような塵芥なのか、わたしにはわからない。わからないし、気にもしない。なぜならば、どんな幸福がこの地上においてわたしに可能なのかは、わかっているから。わたしの幸福には、わたしの幸福を立証するもっと高次な目的など必要がない。わたしの幸福は、何らかの最終地点へ達する手段ではない。それそのものが最終地点なのだ。それそのものが、それ自身の目標なのだ。それが、それ自身の目的なのだ。 わたしは、他の誰かが達成したいと思っている目標への手段でもない。わたしは、他人が使用する道具ではない。わたしは、他人の要求を満たす召使ではない。わたしは、他人の傷を巻く包帯ではない。わたしは、他人の祭壇に捧げられる生贄(いけにえ)ではない。 わたしは人間だ。わたしがもつこの奇跡とは、所有すべき保持すべきわたしのものであり、守るべきわたしのものであり、活用すべきわたしのものであり、そのまえに跪くべきわたしのものである。 わたしは、わたしの宝物を他人に降参して譲ることなどしない。共有することもしない。わたしの精神という財産は、吹き飛ばされて真鍮の貨幣になって貧しい人々のための義捐金(ぎえんきん)になどにならない。わたしは、わたしの宝物であるわたしの思想や、わたしの意志や、私の自由を守る。これらの宝物の中で最高のものは、自由である。 わたしは、わたしの兄弟たちに何も負ってはいない。彼らから借金をして金をかき集めたこともない。わたしは、わたしのために生きてくれと、他人に頼んだりしないし、他人のために生きることもしない。わたしは、誰の魂も欲しくないし、わたしの魂は、他人が欲しがるためにあるのではない。 わたしは、わたしの兄弟たちの敵でもないし、友でもない。しかし、わたしの敵であれ友であれ、その敵意にふさわしい、または好意にふさわしい何かをわたしから得ることはできる。しかし、わたしの愛を獲得するためには、わたしの兄弟たちは、彼らが生まれたときの状態より以上の存在になっていなければならない。わたしは理由もなく、わたしの愛を与えない。わたしの愛をくれと主張したがる通りすがりの者に、そんな機会は与えない。わたしは、わたしの愛で人々に栄誉を授ける。しかし、その愛は、努力で獲得されるべきものなのだ。 わたしは、人々の中からわたしの友を選ぶ。わたしは、友を選ぶのであって、奴隷や主人を選ぶのではない。わたしは、わたしの心にかなう友を選び、その友を愛し尊敬する。友に命令したり、従ったりはしない。お互いにそれを望むときには、互いの手を取り、ときにはひとりで歩く。なぜならば、人間は、自らの精神の殿堂においては、ひとりだから。それぞれの人間が、自らの殿堂を侵されず汚されないように保持することができるようにしよう。その人間が望むときに、他の人間と手をつなぐことを許そう。しかし、そんなときでも、その人間の聖なる殿堂の入り口を踏み越えることはしないでおこう。 自らの選択によるものと、再考したうえでのことでなければ、<我々>という言葉は、語られてはいけない。この言葉を、ひとりの人間の魂の中に最初に置かれては絶対にいけないのだ。そんなことになれば、<我々>という言葉は、怪物になる。この地上のすべての悪の根源となる。多数の人間がひとりの人間を迫害する原因となる。口に出して告発もできない虚偽となる。 <我々>という言葉は、人々の上に降り注ぐ石灰のようなものだ。それは積り積もって固まり、石となり、その下にあるものをすべて打ち砕く。白いものも、黒いものも、石灰の灰色のなかに等しく失われてしまう。<我々>という言葉によって堕落した人々は、善良なる人々の美徳を盗む。弱者は強者の力を盗む。愚劣なる人々は、賢者の知恵を盗む。<我々>という言葉は、そういう言葉なのだ。 すべての人間の手が、たとえば決して清浄とはいえない人々の手でも、触れることができるような、私の喜びとは何なのだろうか?愚劣なる人々でさえ、わたしに命令できるとしたら、いったいわたしの知恵とは何だろうか?すべての生き物が、たとえ出来損ないの人々、無能なる人々でさえ、わたしの主人であるとするのならば、わたしの自由とはいったい何だろうか?もし、わたしが頭を下げ、同意し、従うだけしかしないのならば、いったいわたしの人生とは何だろうか? しかし、わたしは、この腐敗の信条によって育てられてしまった。 わたしは、<我々>という怪物によって形成されてきた。奴隷の言葉、略奪者の言葉、悲惨さと虚偽と恥辱の言葉である<我々>によって、わたしは作られてしまった。 そして、やっと今、わたしは、神の顔が見える。わたしは、この神を地上より高く掲げる。この神は、人間が存在して以来、求めてきたものだ。この神は、人間に喜びと平安と誇りを与える。 この神とは、このひとつの言葉。 <わたし> |
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