Anthem(1938)全訳
アイン・ランド作/藤森かよこ訳『アンセム』

第十二章

わたしは、<わたし>という言葉に出会った。わたしの新居となった家で見つけた書物の冒頭を読んでみたら、その言葉が書かれていたのだ。この言葉の意味を理解したとき、わたしは思わず、その書物を手から落としてしまった。わたしは泣いた。涙を流すことなど知らなかったわたしだったのに、声を出して泣いた。桎梏(しっこく)のもとにある人類の解放を思い、人類が可哀想で、わたしは泣いた。

わたしが、かつてわたしの呪いと呼んだものは祝福すべきものなのだと、やっとわかった。なぜ、わたしの中の最上のものがわたしの罪であったのか、やっとわかった。といっても、わたしは、その自分の罪を罪とは感じられなかったのだが、その理由も今はわかる。何世紀にも渡る鎖と鞭でさえ、人間の魂を殺すことはできないし、人間の中にある真実を感じる心を抹殺することもできやしない。

何日もの間、わたしは多くの書物を読んだ。読み終わってから、わたしは<金色のひと>を呼んだ。わたしは、自分が読み学んだことを、彼女に話した。聞き終わって、彼女はわたしを見つめた。彼女が発した最初の言葉は、こうだった。

「わたしは、あなたを愛しています」

そのとき、わたしは言った。

「ねえ、わたしの愛しい人、人間に名前がないのはおかしいんだ。それぞれの人間が、他人と自分を区別する自分自身の名前を所有していた時代が、かつてあったんだ。だから、わたしたちも自分の名前を選ぼうよ。何千年も前に生きていたある人間のことを、わたしは読んだ。ここにある本に沢山の名前が書かれていたけれども、わたしは、その人間の名前を自分のものにしたい。彼は、神々の光を奪って、人類にもたらした。彼は、人間たちに、自らが神々になることを教えた。そのために、彼は苦しむ羽目になった。人類にとって光となるようなものをもたらした人間は、すべからく迫害にあったものだけれど、彼もそうだった。彼の名前は、プロメテウス」

「では、それがあなたのお名前だわ」と、<金色のひと>は言った。

わたしは、さらに言った。「わたしは、ある女神についても読んだ。その女神は、大地の母であり、すべて神々の母でもある。彼女の名前は、ガイア。ねえ、<金色のひと>、これを君の名前にしよう。だって、君は新しい神々の母になるのだから」

「ガイアがわたしの名前」と、<金色のひと>が言った。

今、わたしは前方を見つめている。わたしの未来は、わたしの前に開けている。あの火あぶりになった<聖者>は、わたしを彼の後継者に選んだとき、この未来が見えていたのだ。あの聖者は、彼の前にこの世に生き、同じ大義のために死んだ聖人となり殉教者となった人々の後継者として、わたしを選んだのだ。同じ大義のため、同じ言葉のために死んだ人々の後継者として、わたしを選んだのだ。どんな呼び方をするにせよ、彼らの大義と彼らの真実を託したその言葉のために、彼らは死んだ。わたしは、彼の後継者として選ばれたのだ。

わたしは、ここに住む。このわたし自身の家に住む。わたしは、わたし自身の手の労苦によって大地から獲得した食物を取る。わたしは、わたしのものとなった書物から、幾多の秘密を学ぶ。これから何年もかかるだろうけれども、わたしは、過去の人類の達成したことを構築しなおしていく。そして、それらをさらに先へ未来へと運んでいく。わたしに開かれるであろう様々な業績を、わたしの兄弟たちには永遠に閉ざされてしまっている業績を、未来に運んでいく。兄弟たちの頭脳は、彼らの中でも最も弱く、最も愚鈍な人々に、拘束されているのだから、その業績を手にすることはできないのだ。

わたしは、すでに学んだ。わたしが探ったあの空の力は、すでにはるか昔から人類には知られていたものだったということを。人類は、それを<電力>と呼んだのだ。<電力>とは、人類の最大の発明物を動かす力だったのだ。それは、この家を、壁についているガラスの球から発する光で照らしたのだ。この光を生み出すエンジンも、わたしは発見した。いつか、それを修理してみせる。また再び動かせる方法も学んでみせる。この力を運ぶ針金の使い方も勉強する。それから、わたしの家の周りに、この力を伝える針金の障壁を作り、わたしの家に通じる道に渡すのだ。花崗岩の壁よりも突破するのが困難な、蜘蛛の巣のような障壁光を作ってみせる。わたしの兄弟たちが渡ることができないような障壁を造ってみせる。そうなると、彼らには、わたしと戦う術などありはしない。彼らには、頭数が多いという野蛮な力しか持ち合わせがないのだから。わたしには、わたしの頭脳があるのだから。

それが終わったら、そう、ここ、この山の頂上で、眼下に世界を見下ろしながら、太陽しか頭上に頂かずに、わたしはわたし自身の真実を生きることにしよう。ガイアは、今、わたしの子どもを身ごもっている。わたしたちの息子は、ひとりの人間として育てられる。彼は、<わたし>と自分を言うことを教えられ。その言葉に誇りを持つよう教えられる。彼は、まっすぐに歩くこと、自分の足で歩くことを教えられる彼は、自分自身の魂への畏敬の念を教えられる。

いつかすべての書物を読み終わり、わたしが生きる新しい道を学んだら、わたしの家に備えができて、わたしの大地が十分に耕かされたら、そうなったら、わたしは、ある日、忍んで行こう。これが最後と思い定めて、わたしが生まれたあの呪われた<都>に忍んで行こう。<国際四の八八一八号>以外の名を持たない友を、わけもなく泣き叫ぶ<友愛九の六三四七号>のような人々みんなを、夜になると助けを求める<連帯九の六三四七>を、その他の少数の人々を、わたしの地に呼ぼう。心の奥にある魂が抹殺されていない男や女たちみんなを、彼らや彼女たちの兄弟の頸木(くびき)のもとで苦しむ人々みんなを、わたしの地に呼ぼう。彼らや彼女たちは、わたしについて来るだろう。わたしは、彼らや彼女たちを、わたしの砦に連れてくるのだ。それから、ここで、この<未知なる荒野>で、わたしと彼らや彼女たち、わたしの選んだ友人たち、わたしの同士となる建設者たちは、人類の新しい歴史に最初の章を書き記すことになる。

わたしの未来には、なすべきことがいっぱいある。わたしは、ここ栄誉の戸口に立ちながら、過ぎた日々を振り返る。しかし振り返るのもこれが最後だ。わたしが書物から学んだ人類の歴史を概観して、わたしは不思議に思う。人類の歴史は長い。人類の歴史を動かした精神は、人間の自由の精神だ。しかし、自由とは何か?何からの自由か?ひとりの人間から、その人間の自由を奪えるものなど何もない。その人間以外の多数の人間だけが、その人間個人の自由を奪うのだ。だから、自由であるためには、人間は同胞たちから自由でなければいけない。それが自由だ。これが自由である。それ以外の何ものでもない。

歴史の始まりにおいて、人間は神々の奴隷だった。しかし、人間は神々の鎖を破りはずした。それから、人間は王たちの奴隷となった。しかし、人間は王政の鎖もはずした。今度は、人間は、生まれや親類縁者や人種の奴隷となった。しかし、その鎖もはずした。人間は、同胞たちに宣言したのだ。ひとりの人間には、神も王も他人も-----その他人の数がどれほど多くとも------取り上げることができない権利があると。ひとりの人間の権利こそ、人類の権利だ。この権利以外の権利など、この地上にはない。人類は、自由の出発点に立っていたのだ。その自由こそ求めて、人類は、何世紀にも渡って血を流してきたのだ。

しかし、なのに、人類は、人類がやっと獲得したものすべてを放棄してしまった。そして、人類の起源たる野蛮な状態よりも低劣な状況に陥ってしまったのだ。

いったい、何がそんなことを許したのか?人類から理性を奪い取るような、どんな災害があったのか?恥辱と屈従に人類を跪かせるような、どんな鞭が振り下ろされたのか?その災害とは、その鞭とは、<我々>という言葉を崇拝するという行為だ。

人々が、そんな崇拝を受け容れてしまったときに、何世紀にも渡って構築された世界の仕組みが、崩壊してしまった。その仕組みのそれぞれの梁(はり)は、あるひとりの人間の思考から生まれた。時代を下るごとに、その時代の誰かひとりの人間の思考から生まれた。ひとりの人間の精神から、その精神それ自身のため以外には存在しなかったそのような精神の深いところから、世界を構築するひとつひとつの梁が生まれた。それらの梁がすべて崩壊してしまったのだ。その崩壊を生き残った人々は、自分自身たちの正当性を立証する何物も持たないので、やたら従属したがり、やたら他人のために生きたがってしまったので、自分たちが先人から受け取ったものを未来に伝えることも、保持することもできなかったのだ。かくして、すべての思想、すべての科学、すべての知恵が、この地上から消滅した。かくして、人々は、大勢の頭数があるということしか提供するものがない人々は、鉄鋼製の塔を失い、空飛ぶ船を失い、動力を生み出す針金を失い、彼らが創造したわけではなく、維持することも決してできなかったすべての事物を失った。おそらく、時代が下ってから、失われた事物を復活させるだけの頭脳と勇気を持った人々も生まれたし、おそらく<学識びと協議会>の水準より更に前進した人々もいたに違いない。しかし、彼らは、わたしが、あの<学識びと世界協議会>で受けたのと同じ対応をされたに違いない。そんな対応を受けた理由も、わたしのときと同じだったに違いない。

しかし、わたしは、そんなことがありえたのかと、まだ不思議でならない。はるか昔の、崩壊から今のような時代に至る過渡期である野蛮な時代でさえ、それがわからなかったのだろうか?そんな愚かなことがありえたということが、わたしには不思議でならない。彼らは、自分たちがどんな状態になりつつあるのか、わからなかった。かつ先を見る眼のなさや臆病さのために、それにふさわしい運命に至ってしまったのだが、それすらも彼ら自身では理解できなかった。そんなことが、ありえるのだろうか?<わたし>という言葉を知っている人間ならば、人類が獲得してきたものを諦めることなど、どうやってできるのか?または自分たちが失ったものの価値がわからないなどということが、どうしてありえるのか?そんなことは、わたしには想像もつかない。しかし、確かに、それは実際に起きたのだ。わたし自身が、現にあのひどい人々の住む<都>に住んでいたではないか。人類が、どんな恐怖が自らの身にもたらされることを許してしまったのか、今のわたしは知っているではないか。

おそらく、過渡期の当時、明晰な洞察と清浄な魂を持った少数の人間もいたに違いない。彼らは、あの言葉<わたし>を放棄することを拒否したに違いない。来たりつつある、彼らが止めることができない事態を前にした彼らの苦しみはいかほどのものであったろうか!多分、彼らは抵抗し警告して大声で叫んだのだが、人々は彼らの警告には耳を貸さなかったのだろう。そして彼ら少数の人間は、望みのない戦闘を戦った。そして彼ら自身の血で染まった旗印とともに滅びた。いや、滅びることを選んだのだろう。なぜならば、彼らにはどんな時代が来るのか、よくわかっていたから。わたしは、何世紀も越えて彼らに敬礼と挙手を送る。彼らを悼む心とともに。

しかし、彼らが掲げて闘った旗印は、今やわたしの手の中にある。彼らの心の絶望は、それだけで終わったわけではないし、彼らの夜は希望のないままではなかったのだと、彼らに告げる力がわたしにあればいいのに。彼らが敗北した戦闘が、また敗北に終わることなど断じてありえない。彼らが死を賭けて救おうとしたものは、断じて滅びることはない。ありえないのだ。闇を超えて、人類が耐えられる屈辱を超えて、人間の精神はこの地上に生き続ける。それはときに眠ることはあるかもしれないが、いずれ必ず覚醒する。それは鎖をかけられるかもしれないが、必ず脱出する。人間は前進する。人類全体ではなく、個々の人間は前進して行く。

ここ、この山の頂に立ち、わたしとわたしの息子たちとわたしが選んだ友人たちは、わたしたちの新しい国を、要塞を築き上げる。それは、この大地の中心となる。最初のうちは、姿を消したり隠したりしていても、いずれその新しい国の鼓動は日を追って大きな響きをとどろかせる。その言葉、<わたし>は、この大地のすみずみまで浸透する。世界中の道路という道路は、この世界の最良の血液をわたしの国の戸口に運ぶ動脈となる。わたしの兄弟たちと、わたしの兄弟たちの<協議会>も、いずれその言葉を耳にする。しかし、わたしに抵抗しようにも彼らは非力で無能だ。わたしが、この地上のすべての鎖を破る日がやって来る。奴隷化された人々たちでできた街や都市を倒壊させる日がやって来る。そのとき、わたしの家は、世界の首都になる。それぞれ個人の人間が、自由に自分自身のために存在できる世界の首都になる。

その日が来るのを願い、わたしは戦う。わたしとわたしの息子たちとわたしの選んだ友は、戦う。個人の人間の自由のために戦う。個人の人間の諸権利のために戦う。個人の人間の人生のために戦う。個人の人間の名誉のために戦う。

わたしは、ここわたしの要塞の門の石に、わたしの指針であり旗印である言葉を刻み込む。万が一、わたしたちが戦闘で死んだとしても、それ自体は決して滅びることのない言葉を刻み込む。この地上で死滅することなどありえない言葉を刻み込む。なぜならば、その言葉は、この地上の中心であり、意味であり、栄光であるのだから。

聖なる言葉。

自我(エゴ)

『アンセム』完