Anthem(1938)全訳 |
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第七章森の中は暗い。頭上で木々の葉がそよぐ。日暮れていく空の最後の金色の光を背景にして、葉の色は黒ずんでいる。コケの茂みは柔らかく温かい。幾夜も、我々はこのコケの上で眠ることになるだろう。森に住む野獣が我々の体を引き裂くときまでは。もう寝台などない。コケの茂みが寝台だ。未来もない。襲い掛かる野獣という未来以外はない。 我々は今や年老いている。今朝は若かったのに。あのガラスの箱を<都>の街を抜けて、<学識びとの館>まで運んだときは、若かったのに。誰も、我々を邪魔しなかった。<矯正監禁宮殿>から我々を探しに街を回っている人間などいなかったし、だいたいほかの誰も我々が逮捕されていたことなど知らなかったのだ。<学識びとの館>の門でも、誰も我々を止めなかった。誰もいない通路を通過し、我々は<学識びと世界協議会>が厳粛なる集会を開いている大広間に入った。 最初、その広間に入ったとき、青い空を映して輝く大きな窓以外は何も目に入らなかった。それから、長いテーブルをめぐる席についた<学識びと>が見えた。彼らは、大空が立ち上がるそのふもとに蹲(うずくま)る形も定かでない雲のようだった。我々も知っているような有名な<学識びと>もいるし、名前は聴いたことがないが遠い地域からやってきた<学識びと>もいた。彼らの頭上の壁には、大きな絵が掲げられている。蝋燭を発明した二〇人の輝かしい人々を描いた絵である。 我々が入って行ったとき、そこにいた<学識びと協議会>の全員が振り返って、我々を見た。この地上に生きる偉大で賢明なる人々が、我々のことをどう考えたらいいのかわからないのだった。彼らは、何事が起きたのかといわんばかりの驚きと好奇心で、我々を注視した。我々がひとつの奇跡であるかのような目つきだった。確かに我々の衣服は破れ、血の乾いた茶色い染みで汚れていた。我々は、右手を挙げて言った。 「ご挨拶をさせていただきます。<学識びと世界協議会>の名誉ある兄弟の方々!」 その<協議会>会員の中でも最長老で、最高の賢人である<集団〇の〇〇〇九号>が口を開き、こう訊ねてきた。 「我らが兄弟よ、あなた方はどなたかな?どう見ても<学識びと>には見えないが」 「我々の名前は<平等七の二五二一号>であります。我々は、この<都>の<街清めびと>であります」と、我々は答えた。 そのとき、一陣の大きな風がその集会場の広間を吹きぬけたようだった。<学識びと>たちは、一斉にざわざわと話し始めた。彼らは怒っていたし、震撼してもいた。 「<街清めびと>とは!<街清めびと>が、<学識びと世界協議会>にやって来るとは!信じられない事態だ。規則違反だ!法律違反だ!」 しかし、我々は彼らを黙らせる方法がわかっていた。 我々は言った。「我らが兄弟の方々!我々のことなどどうでもいい。我々の罪などどうでもいいのです。大事なのは、我らが兄弟の方々であります。我々のことなどお気になさらないで下さい。我々などどうでもいいのです。ただ、我々の言うことに耳を傾けていただきたい。我々は、みなさんに、ある贈り物を持ってまいりました。未だかつて人間に与えられたことのない贈り物であります。どうか聴いて下さい。我々は、この手の中に人類の未来を開く物を持っております」 すると、彼らは静かに我々の言葉に耳をすませた。 我々は、彼らの前のテーブルの上に、あのガラスの箱を置いた。その箱について、我々が行ってきた長い探求について、我々の地下トンネルについて、<矯正監禁宮殿>からの脱出について、我々は語った。我々が話している間、<学識びと>たちは、誰も片手さえ動かさず、目ですら動かさなかった。説明し終わってから、我々は箱に針金をあてた。<学識びと>たちは、体を前かがみにして、じっと座したまま、その箱を見守った。我々はといえば、静止して立ったまま針金に目を注いだ。ゆっくりと、ゆっくりと、血が頬を紅潮させていくように、赤い炎が針金の中でちかちか震えた。それから、炎が輝かしく光った。 <協議会>の人々を恐怖が襲った。彼らは飛び上がって、テーブルから走って逃げた。壁に背中を押しつけて、みないっしょに身を寄せ合った。なんとか勇気を振り絞るには、互いの体のぬくもりが必要だと言わんばかりに、互いの身をしっかり寄せ合った。 我々は、彼らの狼狽(ろうばい)ぶりを眺めて、大声で笑い言った。 「何も恐れないで下さい、我らが兄弟のみなさん。これらの針金の中には偉大な力がこめられていますが、この力は飼い慣らすことができるものです。この力は、あなた方のものです。我々は、これをみなさんに進呈いたします」 それでも、彼らは身動きしなかった。 「我々は、空の力をあなた方に進呈いたします!」と我々は叫んだ。「我々は、この地上に、空の力を駆使する鍵を進呈します。受け取って下さい。我々を、あなた方のお仲間に加えて下さい。実にふつつかな弱輩者ではありますが。いっしょに研究をしようではありませんか。この力を利用しようではありませんか。人々の労苦をこの力で軽減しようではありませんか。蝋燭や松明(たいまつ)など捨ててしまいましょう。我々の街を、すべての町を、光で満たしましょう。人々に新しい光をもたらしましょう!」 しかし、<学識びと>たちは、我々の顔を眺めているだけだった。そのとき突然、我々は恐怖を感じた。なぜならば、彼らの瞳はじっと動かず、小さく、邪悪さをたたえていたから。 「我らが兄弟よ!我々におっしゃることが何もないのですか?」と、我々は叫んだ。 そのとき、壁際にいた<集団〇の〇〇〇九号>が前に歩を進めた。テーブルに戻ったのだ。他の<学識びと>たちも、彼らにならった。 「いいや、ある。お前たちに話すべきことが、我々にはいっぱいある」と、<集団〇の〇〇〇九号>が口を開いた。 <集団〇の〇〇〇九号>の声の響きが、大広間に沈黙をもたらし、かつ我々の心臓に激しい鼓動をもたらした。 <集団〇の〇〇〇九号>は言った。「そうだ。我々には、すべての法を破り、自分たちのしでかした破廉恥な行為を大いばりで自慢するような、見下げ果てた人間に言うべきことが、いっぱいある!お前たちは、いったいどういう神経を持っているのか?どうしてそんなことが思えるのか?お前たちの兄弟の頭脳よりも、もっと偉大な知恵を自分たちの頭脳が持っているなどという不埒きわまることが、なぜ思えるのだ?<協議会>が、お前たちは<街清めびと>であるべきと定めたのだ。なのに、どういうわけで、街を清掃するということよりも人々に役立てることが自分たちにできるなどと、そんなとんでもないことを、お前たちは考えついたのだ?」 「なんと、身の程知らずなことあろうか、溝掃除人ごときが」と、<友愛九の三四五二号>が口をはさんだ。「自分たちのことを、余人に変えがたい人間として考えるとは。大勢のひとりとは思わないとは、なんとまた!」 「お前たちなど、火あぶりにされるであろう」と、<民主主義四の六九九八号>が言った。 「いや、鞭打ちの刑だ。鞭で打たれ打たれて、打たれ終わったらついには肉の欠片もなくなるまで打たれるがいい」と、<満場一致七の三三〇四号>が言った。 <集団〇の〇〇〇九号>が言った。「いや、我らが兄弟よ、これは我々だけでは決めることはできない。このような大罪は犯されたことがないのだから、我々だけで判断するわけにはいかない。小さな<協議会>では駄目だ。人間とも思えないこやつを<世界協議会>に送ろう。彼らの意志に任せよう」 我々は彼らを見渡して、懇願した。 「我らが兄弟の方々!あなた方は正しい。<世界協議会>の意志が、我々の体に下されますように。我々にとっては、それはどうでもいいのです。しかし、この光はどうするのです?この光を、あなた方はどうなさいますか?」 <集団〇の〇〇〇九号>が我々を見て、微笑んだ。 「そうか、お前たちは自分たちが新しい力を発見したと考えているわけだ。しかしお前たちの兄弟みなが、そう考えるだろうか?」と、<集団〇の〇〇〇九号>が言った。 「いいえ」と、我々は答えた。 「すべての人間に考えられていないことは、真実ではありえない」と、<集団〇の〇〇〇九号>が言った。 「お前たちは、このことをひとりでしたのか?」と、<国際一の五五三七号>が訊ねた。 「はい」と、我々は答えた。 「みなといっしょに、集団的になされないことは、善ではありえない」と、<国際一の五五三七号>が言った。 「<学識びとの館>でも多くの者が、今までにも奇妙なことを随分考えついてきた。しかし、彼らの兄弟たちの<学識びと>が、その考えに反対の投票をしたときには、彼らは自分たちの考えを捨ててきた。みなが、そうしなければならないように」と、<連帯八の一一六四号>が言った。 「この箱は役にたたない」と、<協調六の七三四九号>が言った。 「人々が主張するように、物事はあるべきだ」と、<調和九の二六四二号>が言った。「それに、そのようなものは、<蝋燭局>を破滅させてしまうだろう。<蝋燭>は、人類にとって偉大なる恩恵である。すべての人々に是認された恩恵である。したがって、ひとりの人間の気まぐれのために、<蝋燭>が破壊されてはならないのだ」とも言った。 <満場一致二の九九一三号>が言った。「これは、<世界協議会計画>を挫折させるだろう。<世界協議会計画>がなくては、太陽も昇れない。蝋燭が、すべての<協議会>からの是認を確保して、必要とされる蝋燭数が決定され、松明のかわりに蝋燭を使用するために<世界協議会計画>が修正されるまでに五〇年かかった。こんなものが出てきたら、たくさんの国家で働く何千何万もの人間に重大な影響を与えてしまう。また再び、こんなに早く<世界協議会計画>を変更することなどできるはずがない」 <類似五の〇三〇六号>が言った。「それに、もしこれが、人々の労苦を軽減するとしたら、それは重大な悪ではないだろうか。他人のために汗を流し苦労することにおいて以外に、人間に存在すべき大義などない」 そのとき、<集合〇の〇〇〇九号>が椅子から立ち上がり、我々のガラスの箱を指差した。 彼らは言った。「この箱は、破壊されねばならない」と。 他の<学識びと>みんなが、声を揃えて叫んだ。 「それは、破壊されねばならない」 それから、彼らは我々のガラスの箱に飛びかかった。 我々は箱を掴み、飛びかかってきた<学識びと>たちを脇に押しのけ、窓に向かって走った。最後に、我々は振り返って、彼らを見た。彼らは、人間が知らない方がふさわしい醜悪な顔をしていた。それは、我々の喉からもれる声でさえ詰まらせるほどの無残なものだった。 「お前たちは馬鹿だ!馬鹿ばかりだ!最低最悪の馬鹿だ!」 我々は、こぶしで窓を突き破った。窓ガラスが音をたてて雨のように降り注ぐ中を、我々は外へ飛び出した。 我々は地面に落ちた。しかし、手からあのガラスの箱を決して離さなかった。それから、我々は走った。ただ、やみくもに走った。人々も家々も形のない急流となって、我々を通過して行った。我々の前の道路は平らには見えず、まるで道路の方が我々に会うために跳躍しているようだった。我々は、地面が立ち上がり、我々の顔を打つのではないかと身構えたほどだ。しかし、それでも我々は走った。どこに向かっているのかわからずに、ただ走った。ただ走らなければならないということしか、我々にはわからなかった。ともかく世界の果てまで走らなければならなかった。我々の命が尽きるまで走らなければならなかった。 それから、唐突に我々は気がついた。自分たちが、柔らかな地面に寝転がり、走るのをすでにやめていることに気がついた。我々の目の前には、今まで見たこともないような高い木々が立っていた。大いなる沈黙の中、それらの木々は我々の頭上高くそびえていた。それでわかった。我々は、<未知の森>にいたのだ。ここに来ることなど頭をかすめることさえなかったのに、なのに、我々の足は我々の内なる知恵に導かれて、<未知の森>に来たのだった。我々の足は、我々の意志に逆らい、<未知の森>に我々を運んだのだった。 我々のあのガラスの箱が傍らにあった。その箱まで、我々は腹ばいに進み、箱の上におおいかぶさった。両の腕の中に顔を埋めて、我々はじっと身を横たえた。 何時間も、その姿勢で我々は横たわっていた。しばらくしてから身を起こし、箱を手に取り、森の中をさらに奥に向かって歩いていった。 もう、どこに行こうが問題ではない。誰も我々を追跡などしないことはわかっている。あいつらは、<未知の森>に足を踏み入れることなど決してしない。我々が、あいつらを恐れる理由は何もない。この森は、自らの獲物を自ら始末する。そんなことすら、もう我々に恐怖を与えることはない。ただ、我々は遠ざかりたかった。<都>から離れたかった。<都>の空気に触れる空気からさえ離れたかった。だから、我々はずんずん進んで行く。両の腕にあのガラスの箱をかかえて、心は空っぽのまま、ただ森の奥に進んで行く。 我々は、もう終わりだ。どんな日々が我々にこの先残されていようと、我々は、その残された日々をひとりだけで過ごすのだ。孤独の中に発見された腐乱死体のことを耳にしたことがある。我らが兄弟たちそのものである真理から、我々は自らを引き裂いたのだ。我々に戻る道はない。償う術(すべ)などもうない。 我々の両腕の中にあるガラスの箱だけが、我々に力を与える生き生きとした心臓だ。我々は、自分自身に嘘をついてきた。我らが兄弟たちのために、我々はこのガラスの箱を作ったわけではない。我々は、ただこのガラスの箱そのもののために、この箱を作ったのだ。我々にとって、それは我らが兄弟より優先するものだ。その真実は、我らが兄弟たちの真実を越えた真実だ。しかし、こんなことを、なぜいちいち考えなければならないのか?もう我々に残された日々は多くはないのだ。大いなる沈黙を守っている木々の中のどこかで待っている毒牙まで、我々は歩いているのだから。もういちいち後悔するべき何物も、我々には残されていない。 その瞬間、一撃の痛みが我々を襲う。こんな痛みは初めてだった。我々が生まれて初めて感じた激しい心の痛みだった。我々は、<金色のひと>のことを思い出す。もう二度と会えない<金色のひと>のことを思い出す。それからしばらくして、我々の痛みは消える。これでいいのだ、一番いいのだ。我々は、呪われた極悪人のひとりだ。<金色のひと>が我々の名前を忘れ、我々の名を持った体を忘れるのならば、それが一番いい。 |
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