Anthem(1938)全訳
アイン・ランド作/藤森かよこ訳『アンセム』

第九章

何日もの間、我々は書かなかった。我々は語りたくもなかった。我々に起きたことを思い出すためには、言葉など必要なかったから。

我々の背後から何ものかの足音が聞こえたのは、森にやって来た二日目のことだった。我々は、茂みに中に身を隠した。待った。足音はどんどん接近してくる。木々の向こうに、白いチュニックの折り目が見える。一筋の金色も見える。

我々は茂みから飛び出す。走り寄る。我々は、<金色のひと>を見つめながら、呆然と立つ。

彼女たちは、我々を見る。彼女たちは、両手をぎゅっとこぶしの形に握り締める。手をこぶしにしたまま、両の腕がだらりと垂れ下がる。両腕が自分自身を抱いて支えてくれればいいのにと思っているような風情だ。その間にも、彼女たちの体はこきざみに震えている。言葉も出ないようだ。

我々は、彼女たちに思い切って近寄っていくこともできずに、ただ訊ねるだけだ。我々の声は震えている。

「どうやってここに来たの、<金色のひと>?」

彼女たちは、ただささやくだけだ。

「やっとあなたたちを見つけました」と。

「どうやって、この森に来たの?」と我々は訊ねる。

彼女たちは、頭を上げる。彼女たちの声には、自分たちを誇りに思う響きがこめられている。彼女たちは、答える。

「私たちは、あなたたちを追ってきました」と。

今度は、我々のほうが言葉を失う番だ。彼女たちは、さらに言う。

「あなたたちが、<未知の森>に行ってしまったという噂を聞いたのです。<都>の人たちはみな、そう言っていますから。そう聞いた日の夜に、私たちは<農耕びとの館>から逃げたのです。誰も歩いたはずがない草原に、あなたたちの足跡があるのを見つけました。だから、私たちは、その足跡を追ってきたのです。そうしたら、この森に入ることになりました。あなたたちの体が通過するときに折れた枝を道のように、ここまでたどって来たのです」

彼女たちの白いチュニックは、引き裂かれていた。森の木々のいっぱいある枝が、彼女たちの肌を切っていた。なのに、そんなことに気づいてもいないかのように、全く疲れも知らないかのように、恐れなど何もないかのように、彼女たちは語る。

「私たち、あなたたちを追ってきたのです。あなたたちが行くところならば、どこにでも私たちはついて行きます。あなたたちが危険にさらされるのならば、私たちもまたその危険に立ち向かいます。もし、死が襲ってくるのならば、いっしょに死んでも構いません。あなたたちは、地獄に落ちることを宣告されています。あなたたちが地獄に行くのならば、私たちもいっしょです」と、彼女たちは言う。

彼女たちは、じっと我々を見つめている。声は低く落ち着いている。彼女たちの声には、苦渋の響きもなければ、元気を装っているようなこれ見よがしの勝ち誇った響きもない。

「あなたたちの目は、炎のようです。でも、私たちの兄弟たちの目には、希望もなければ炎もない。あなたの口元は、花崗岩から切り取られたかのような強さがありますが、彼らの口元は軟弱で卑屈です。あなたたちの頭は高く掲げられているのに、私たちの兄弟たちはすぐにへつらいぺこぺこする。あなたたちは歩くのに、彼らは這いつくばる。私たちは、あなたたちといっしょに破滅したいのです。あの私たちの兄弟たちとともに祝福されるより、その方が私たちにはいいのです。私たちとともに、あなたたちのしたいことをなさって下さい。でも、私たちをここから追い払わないで。あなたたちから遠ざけるようなことは、しないで」

彼女たちは跪く。我々の前に金色の頭をたれる。

我々は、自分たちが何をしたのか意識できずに、<金色のひと>を立ち上がらせる。彼女たちの体に触れたときだった。狂気が我々を襲ったのだろうか、我々は彼女たちの体を掴み、自分たちの唇を彼女たちのそれの上に重ねる。<金色のひと>は一度吐息をもらしたが、それはうめき声でもある。彼女たちの両腕が我々の体をしっかり抱きしめる。

我々は、長い間、そのままいっしょに抱き合っていた。二一年間生きてきて、こんな悦びが人間には可能であるとは、知らなかった。そのことが我々を震撼とさせる。

それから。やっと我々は言う。

「ああ愛しい人。森のことなど何も恐れないで。我々だけならば、危険は何もないよ。もう我らが兄弟たちなんて必要ない。あいつらの言う善とか、あいつらの言う邪悪とか、もう忘れよう。我々がいっしょにいるということ以外は、我々と君たちの間に絆があるということ以外は、みんな忘れよう。手を貸して。上を見てごらん。<金色の人>よ、ここは我々の世界だ。不思議な知られざる世界だけど、我々の自身の世界だ」

それから、我々は、手に手をとって、さらに森の奥深く進む。

その晩、我々は知った。自分たちの腕の中に、女たちの体を抱くことは、醜いことでもないし恥ずべきことでもなく、人間という種に当然許された歓喜だと。

我々は、何日もの間、歩いた。この森は果てることがない。我々も、森が終わるのを求めているわけではない。我々と<都>の間にある日々の連続に付け加えられる一日は、そのつど祝福が付け加えられるようなものだった。

我々は、一本の弓と何本かの矢を作った。食料として必要な数以上の鳥が、これで確保できる。森で、泉や果物も発見できる。夜になると、木や下草がなく開拓地のように開けた土地を選んで、その周囲に火の輪を作る。その火の輪の真ん中で、我々は眠る。だから野獣たちは我々を襲うことができない。野獣の目が、石炭のように緑色や黄色をした目が、我々を向こうの木々の枝から凝視している。輪になった火は、我々を囲む宝石の王冠のようにいぶり、煙を出す。その煙が、月光に照らされて青い何本かの柱の形となって、空中にとどまる。我々は、その輪の真ん中で眠る。<金色のひと>の両腕は、我々の体に巻きついている。彼女たちの頭は、我々の胸の上にある。

いつか、我々は探検をやめて、家を建てるだろう。もう十分に遠くまで来たと判断したときだ。しかし、まだ急ぐことはない。我々の前にある日々に終わりはない。この森のように果てることがない。

我々には、我々が見出したこの新しい生活が、ほんとうには理解できていない。ただ、この新生活は、きわめて明瞭で、きわめて素朴に思える。いろいろな疑問が我々を悩ますようになると、我々は歩く速度を速めて、後を振り返って、我々の後についてくる<金色のひと>を見つめる。すると、すべてのことを忘れる。彼女たちが行く手をさえぎる枝を押し開けて進むとき、葉の影が彼女たちの腕の上に落ちる。しかし、彼女たちの肩は太陽に照らされている。彼女たちの腕の肌は、木々の枝の葉の色を映して青い霞色だ、しかし、肩は白く輝いている。光が頭上の太陽から注いでいるから白く輝いているのではなく、彼女たちの肌の内側から光が放射されているから白く輝いているようなのだ。我々は、彼女たちの肩に落ちた葉っぱを見つめる。その葉は、彼女たちの首が曲線を作るあたりにとどまっている。葉の上の露が、宝石のように、彼女たちの首のあたりで輝き、きらめく。彼女たちは我々に近寄ってきて、立ち止まる。そして声をたてて笑う。我々が考えていることがわかるのだ。彼女たちは、じっと従順に待っている。問いかけることなどしない。我々がまた前方を振り向いて、前に進む気になるまで、待っている。

我々は前進する。足の下の大地を祝福する。黙って歩いていると、また数々の疑問が心にわいてくる。我々が見出したものが、孤独という破滅なのならば、ならば、その破滅以外に人間が望むものなどあるのだろうか?この至福以外に、何を望むのだろうか?これが、ひとりでいるという大きな邪悪なのならば、いったい何が善で、何が邪悪なのか?

多数から生まれるものならば、何でも善である。ひとりから生まれるものは、何でも悪である。我々は、この世に生まれて最初の呼吸をしたときから、そう教えられてきた。我々は、その法則を犯してしまったが、それそのものの是非を疑ったことは一度もなかった。しかし、今は、この森を歩きながら、我々はだんだんと、その教えを疑い始めている。

兄弟みんな、同胞たちのために役立つ苦労をすること以外の人生は、人間にはありえない。でも、我らが兄弟たちのために我々が努力していたとき、我々は生きていなかったといえる。そうしても、ただ疲れるだけだった。兄弟たちと分け合える喜び以外に、人間には喜びがない。でも、我々に喜びを教えてくれたのは、我々があの針金の中に創造した力であり、<金色のひと>だった。この喜びは、両方とも、我々だけ、我々ひとりだけのものだ。喜びは、我々ひとりの中から生まれるのだ。他の兄弟たちなど関係がない。我々が得た喜びは、どんな観点から見ても、我らが兄弟とは関わりがない。だから、我々は考えあぐねてしまう。

人間というものに関する考え方に、何か間違いがある。ゾッとするような間違いがある。その間違いとは何だろうか?我々にはわからない。しかし、ある認識が、我々の内部でうごめいている。生まれ出ようとして苦しんでいる。

今日、<金色のひと>が突然に立ち止まって、言った。

「私たちは、あなたたちを愛しています」

しかし、そのとき彼女たちは眉をひそめて、頭を振り、絶望的なまなざしで、我々を見つめた。

「いいえ、私たちが言いたいことは、そんなことじゃない」と、彼女たちは小さな声で言う。

それから、彼女たちは黙っていた。しばらくして、やっと彼女たちは、ゆっくりと語りだす。彼女たちの言葉は、たどたどしく、初めて話すことを学んでいる子どもの言葉のようだ。

「私たちは、ひとり・・・ひとりだけ・・・かけがえのないひとり・・・そして、私たちは、ひとりであるあなたたちを愛している・・・ひとりのあなたたち・・・かけがえのない」

我々はお互いの目を見つめる。そのとき、奇跡のような吐息が我々に触れ、飛び去り、身を寄せ合ったままの我々を空しく置き去りにした。そのことが、我々と<金色のひと>には感じられた。

我々は、見つけることのできないある言葉を求めて、我々の心が引き裂かれたように感じた。